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僕とお蕎麦のミルフィーユ・イン・ザ・ミソスープ

人というのは歳を食うとわがままになる。

なぜかというと歳を食うと若人の時代に出来たことが出来なくなるからである。

なして出来ないかというと体力・能力・気力が落ちぶれるからであって、例えばカツ丼を食うにしてみても油と出汁と卵に塗れたカツに胃の力が追いつかず、中途で胸が悪い心地になり、舌や食道が一斉に拒絶をしめして、とうとうカツを米を油を卵をそして出汁を受け付けなくなる。

カツに体力・気力が敗北し、カツを食う能力を失うのである。

そのような敗北を味わって、心が卑屈になると、若人が「先輩、本日のランチはカツ丼どうすかどうすか?」などと舐めたことをほざきやがるのだが、ついつい「そんな奇人が食うような得体の知れぬものを食いたいなんて、だからお前は無能なんだ馬鹿野朗、くそ野朗、えんこでも食ってろ」というような暴言を吐きたくなるのもやぶさかでなくなるのであるから困った男であるが、困ったままではおられずさらに、「蕎麦。蕎麦がいいんだ。いいかい?蕎麦ほど胃に優しくて、人という生物の体力・能力・気力を維持・持続させる食い物はないのだよ。知っていたかい?ん?知らぬ?知らぬのなら早急に食わねばならんよ。ほらすぐ。例えば本日のランチとかに。そうそう今日は蕎麦にしよう」などと、本日のランチを強引ののちに蕎麦に変更させる実にわがままな男に成り下がるのである。それは僕である。

あるいはラーメンという日本を代表する麺料理があるのだけれども、これは特に若人が寄ってたかって好む傾向があり、中には大人のおっさんのくせにやたらラーメンを好む奇人までおり、仕舞いには婦女子の分際でラーメンをおかわりするのまでいるくらい、僕にとっては脅威的な食い物である。そら、僕も好きだけれども、そうしょっちゅう食えぬ。なぜなら油っこいし。油を啜り続けると胸の心地に影響が出て、最後には体力気力の敗北と能力の損失を味わうことになる。そういう時も「蕎麦蕎麦蕎麦」といって若人のランチに全力で蕎麦を推し進め、若人どもの午後からの仕事においてのモチベーションの低下を招こうとも蕎麦を優先。実にわがままな蕎麦野朗である。で、気が付けば、否、中途で気が付いていたのだけれども、近頃のランチは一人である。そばには誰もおらず一人啜るそば。さみしいではないか。だから一緒にランチ行こうよ。カツとかラーメンでないやつ食いに。と言っても返答はおろか木霊すら返らず。

で。で。カツ丼とラーメンの中間ちゅうか、油が少ないんだけれどもボリュームを感ずる、というか、そのような食い物はないのか、と思い立って世の中を見つめ直してみているのだけれども、そんで思いついたのが寿司。寿司はどうだろうか? 寿司というのはね、ミルフィーユですよ。ミルフィーユといえばフレンチ。米の上に生の魚を乗っけるなんて同じミルフィーユでもフレンチがびびるくらいのミルフィーユでないのかしらん。さらに世を見つめ直すと、これはピンチョスともいえる。ピンチョスといえばスパニッシュ。なまらお洒落じゃないの。スペインといえばほら、バスク帽というでかくて丸い帽子があって、僕は近頃バスク帽を被っている。きっと流行すると確信めいて被っているのだけれどもこれ、全く流行らず、一人で、たった一人で被っている。寿司がピンチョスであるということを発見した僕が、バスク帽を一人で被っている。一人で、蕎麦を食いながら、バスク帽を被って、寿司がピンチョスであることを発見している。ちゅうことは僕の発見に誰も気づかないということであり、僕の発見を誰も目撃していないという現実であり、どうだろ、どうしてこの世は孤独というものを作るのだろうか。孤独というものの本質は疎外感であり、僕の場合の根本はカツ丼とラーメンではないのだろうか。つまりこの世からカツ丼とラーメンが消え去れば、僕と蕎麦は孤独にならず、みんなバスク帽を被るのではないのか。逆に、逆に、カツ丼+ラーメン側が僕らを、蕎麦らを差別しているのではないのか。そう、僕は抵抗をせねばいかん。自分の尊厳と権利を守るために、蕎麦を啜ること、そしてバスク帽を被り続けることが僕という人間の、蕎麦という蕎麦の主権を守ることに繋がるのである。

で。僕はカツ丼とラーメンという侵略者に対し、蕎麦とバスク帽で抵抗しつつ、カツ丼を絶対に食わぬと心に誓い、体力・気力・能力の維持に努め、がしかし、非常に重要なことなのだけれども、僕の最愛なるワイフがとてもラーメンが好きなため、ラーメンとは和平しようと決断し、二週に渡り週末をラーメン屋で過ごしている。

「美味しい、とても美味しいじゃん」というワイフの笑顔とラーメンの湯気に、僕は平和を感じた。平和って、こんなに身近にあったんだね。ずるずるずる。バスク帽の隙間、こめかみ辺りからねっとりとした汗がしたたり落ち、ずるずる啜る太ちぢれ面のしぶきの波紋でゆがむ味噌スープの表面に、一瞬蕎麦の姿が蘇り、まるで泣き顔のようにゆがんだ蕎麦の姿を一息で呑み込んだのである。ぽちゃん。かしこ。


# by hasumaro | 2022-04-27 11:14 | エッセイ
詩 その48


この世を呑む


本当は誰も泣かなくていい

本当は誰も悲しむことは無い

本当は誰も悲しまなくていい

本当は誰も争わなくていい

誰も悪くない

誰にも罪はない

そして罰が当たらないことを知っている

わたしたちは自由だ

一円のお金が増えないことを知っている

愛が憎しみに変ることを知っている

だからもう助けなくていい

誰も救われなくていい

絶望が過ぎ去れば

屈辱を忘れられる

わたしたちは奴隷だ

そして平和でもある

それが幸福でもある

すべてを壊さなければならない

破壊の限りを尽くして瓦礫を塵に変えなければならない

ソファの上の埃を払わなければならない

何事も無かったかのように笑う

誰も笑わないのならわたしが笑う

わたしだけが笑う

みんなが笑ったらようやく無表情になれる

そこで無視をする

辺りが静まり返るまで

わたしは目を閉じた

やはり、誰も悲しむことは無い

誰も苦しむことは無い

誰も哀れむことも無い

泣く必要さえ無い

本当に美しいということの意味は

悲しさなのだから

美しいということは悲しみなのだから

一点の曇りのないガラスに落ちたのは

いつも泥水である

泥がガラスを曇らせる

それは美しさを知らせるためだった

わたしは泥水を拭いあなたを抱きしめた

あなたは粉々になって砕けてゆく

わたしはあなたの美しさで血塗れになる

血塗れのままあなたの悲しみを

泥の中で訴えるのだ

泥水を汲んだのは誰なんだ

誰が最初の悲しみを作ったんだ

お前らはあろうことかガラスの上で飯を食う

おかわりを始める

わたしとあなたの血をお前は知らぬうちに飲み干した

喉の奥で悲鳴が聞こえる

本当の悲しみは最後まで飲み込まれてしまった

わたしは知っている

人間がなれるものは神ではなかったがために悪魔の芝居を打つ

そうして容易に変態になれる

変態が神を名乗り悪魔と入れ替わる

本当は誰も気にしなかったことをことさら大袈裟に強調して

他人の不幸を肴にコップ酒をなめ

今でも気づかないお前らがおでん屋ではんぺんを喰らう

わたしの愛する人は一度もおでんに手を付けず

自分の肉体の中からこの世界の輪郭を作り出し

魂の中にこの世の終わりを焼き付ける

わたしは君に酒をそそぐ

味がわかるまで何度も呑みこむ

呑みこんでゆく


(2015年 深雪)



# by hasumaro | 2020-07-16 15:58 |
ストレスの爆発煮込み。疲労を添えて

頭が疲れているのか、肉体が疲れているのか、精神が疲れているのか、裸体が疲れているのか、上半身とか下半身とか全身が疲れているのか、目とか鼻とか喉仏とか小指とか、一切が疲れているのか、否、人生が疲れているのか、男としての性に疲れているのか、もうわからんくらいに疲れているのか、知りたくないほど疲れているのか、とにかくもう、僕は疲れているのです。ずーん。

人間という生き物は疲れていると何もできない。否、何もやらぬほうが良いと思ふ。なぜなら失敗するからである。

疲れている時に気合を入れたら気のせいでやれる気がするけど、そんなものは失敗する前のパーティーみたいなもんで、三振前の大当たり、絶望の前の奇跡、火事場の馬鹿力を信じて焼死するようなもんである。

思春期の時代は気合を信じて根拠のない奇跡を実績かのように誤解をしながら乗り切れていたけれど、目が覚めたら六畳一間で固い干物をしゃぶりながら消毒液のような味の安いウイスキーを一人で、たった一人で呑む羽目になっていた。孤独であった。寂しかった。なにも奇跡などなかったのである。幸福など手に入れられていなかったのである。それに気づいて30分ほど泣いた記憶があるが、泣き止んでも一人。屁をこいても一人。それを嗅ぐのも一人だった。だから僕は奇跡など信じない、と信じてこれまで生きてきたのであって、だから気合だとか、気持ちだとか、ハートだとか、そういう気のせいで奇跡を妄信するような愚か者には二度となりたくない。だから疲れた時は休んで、さぼりたい。だって失敗するのだから。失敗したらさらに絶望に陥って、ともすれば六畳一間にさえもいられないかもしらんではないか。便所とか、排水溝とか、そんなところで指をしゃぶっているかもしらんではないか。だから失敗を避けるために今僕は休みたいと切に願うのである。

休むという行為は具体的にどのようなことなのだろ。何もしないこと、とあなたは言うだろうけれども、何もしないと退屈になって、退屈という状態から脱したい、という願望がストレスを生み、ともすればやらんくてもいいような無駄なことをやった挙句、その行為が失敗を生んで、死ぬくらいの後悔を抱く可能性すらあるのである。だからといって退屈を我慢することが休むということなのだろうか、という疑問を抱くのだけれども、そうした疑問とかを心に抱くと、恐らくそうして抱かれてしまった心がストレスを抱くのだと思ふ。このような悪循環をそもそもストレスというのではないのかしらん、という悟りがさらにストレスを生むのだろうから、このような堂々巡りにだんだん腹が立ってくるのだけれども、腹が立つこと自体が立派なストレスなのである。というようなストレスを現在感じている僕は休みたいのに休めない、というストレスを抱き、今、休んでいないのである。労働し続けているのである。阿呆ではないか。

現代社会はストレスが多いという。江戸時代から見れば現代しかしらぬとんだ新参者の僕など、面倒くさいから武士に切り捨てられるのではないか。そう考えるといっそ切り捨てられたくなるが同時に死にたくない。生きたい僕は、生きるために休みたい。でも退屈がストレスになると休めない。そもそも休み方、というのを誰かから指導されたこともないので休み方を知らないのではないのだろうか。そう、僕ら現代人は休み方を知らぬのである。実に哀れなことではないか。

休み方を知らぬ自分に気づいた僕は、休みが怖いのである。休日がくると退屈に警戒しすぎて、退屈にならぬようにコミックスを読んだり、スナック菓子を食ったり、口笛を吹いたり、尻を掻いたりしすぎて、実に忙しいのである。ちっとも休まらないのである。だから非常に疲れているのである。ぜいぜいしながら日曜の深夜を迎え、瀕死の状態で月曜の朝がくるのである。

札幌から福岡へ渡り1年半が経過しようとしている。通勤列車の窓には福岡の海が見える。札幌は陸しかなかったけれど、福岡には海がある。とんこつラーメンも慣れたし、日田焼きそばはむしろ好きである。もつ鍋は未だに食っていない。水炊きも食っていない。食うことばかりが人生ではないが、今度の休みには、妻とライスカレーを食おうか。そんなことを考えながら博多駅。人と博多弁がごった返しているわき道を長い両足を短くして歩きながら、僕は今日も労働。労働というのは飯を食うための手段として必須であるが、これほど大変な手段はない。どうにかして労働をせずに飯を食う方法を考えてきたが、考えているうちに飯が食えなくなって慌てて労働して今がある。あの時余計なことを考えず、早めに労働していたら、何かに成功して、今頃本当に労働せずに食えていたかもしらん、などと考えながらデスクの椅子に尻を落とし、そうして九州弁の人と電話口で八割解読できずに話を終えるなどしている。今度の休みのライスカレーを思い浮かべながら、弁と弁の隙間で心の中に自分の言葉を刻んでゆくのである。ライスカレー食いたい。おでんもいい。チャーハンもいいな。ガパオもええやん。ばってんタコスもいいけ。うどんもうまかよ。

食うために働いて数十年。おかわりしたのは数年前。明日はラム肉の香草焼きドミグラスソース添えにしよう。妻よ、フランスパンを買って帰るよ。待ってておくれ。かしこ。



# by hasumaro | 2018-02-14 14:47 | エッセイ
詩 その47

曇りガラス


わたしの言葉に合理性はない
非合理な感情が自分を酔わしている
自分の言葉に自分と他人を酔わすことができるかもしれないが
でも、何を飲んだのか覚えられない
何かをいつも噛み砕いている

苦しんだり、悲しんだり
そんな虚しさがいつも最後に蘇る
いつものことなのにそれまでの最中、いつも同じ酔い方で
後に引く長い後悔にさらに酔う
そうしてまた飲み込んでゆく

遠い街に来ても心はものすごく近い
それでもまだ、この手に届かないのか
感情が、本当の姿の邪魔をして
また、素直になれない
わたしはこの心を未だ言葉にできない

本当の自分の姿は一円の金にもならない
本当の自分は今日の米粒ひとつも稼げない
心を抱えてわたしは飢え死にしないために昼間を演じている
まだ体は健康だし、トイレも近くない
もう少しこのカウンターで生きのびられる

喋ることが必要だったけれど
そこに言葉は存在したのだろうか
答えのないことが喋ることならば
それまでの言葉を覚えられないのは当然のことだろう
わたしは言葉を喋っていない
現実にはない空間を透明に向かって罵った
そこに写る自分はどうだろう
目を合わせていないからわからないか
電車の窓はスピードが速いな
信号機なんて線のようだ

自分なんてシミのようだ
雨の跡と、日向の光のようだ
この中に心を思い切り吸い込んで
漏れてゆく言葉がガタンゴトンと
ガタンゴトンと

ガタンゴトンと



(2017年 怠惰)
# by hasumaro | 2017-10-26 16:15 |
2016年、果たしてわたしは旅に出た
人生とは旅のようなものである。などとこれまで幾度となく誰かが言っていた言葉であるが僕は一度も言っていない。
一度も言っていない僕が、ほとんど旅のようなことをやる羽目になったのは何の因果なのだろうか、運命にはやはり魔の手があって、人間はそれに翻弄され、果てに気が狂い、凶悪な事態を発生させ、社会を混乱に陥れる、このような繰り返しの中にはたして僕も巻き込まれたのであろうか。否、現実は全く平和であり、むかつくことが些細にあっても飯を食って寝て起きたら放屁と一緒に忘れている程度である。
北海道札幌市からスタートした旅は、途中東京を経由し、あいだに伊豆やら横浜やらを挟んで今福岡にいる。過去昔、一瞬東京は高円寺というところに在住したことがあった以外、生まれや育ちを全部札幌で済ませてきた僕にとっては全く縁もゆかりもないこの福岡ちゅう土地は、来ることも今後去ることも初体験であり、いわば童貞のようなものである。
童貞というのは童貞をやめると童貞であったことすら忘れるくらい突然粋がる生き物で、今の僕は福岡にびびっているけれども、きっといずれ粋がるであろうことは容易に予測でき、というのもその兆しがすでにあって、例えばグルメと逆の舌を持つ僕が「博多はねぇ、みんなとんこつラーメンだと思っているようだけれども、その実うどん。しかもコシがなく、ぐだぐだしたうどんがいいんだよねぇ、知ってる?」などと知ったかぶりを演ずる始末である。去る頃にはおそらく博多の歴史などを語りかねないと今から少しぞわぞわしている。
ちなみに僕が称する旅というのを、社会というか企業というか、その業界では「転勤」というのであるが、そもそもなぜ転勤をさせようと企むのか。人は出世し、その地位や権力をもつとそれを行使したくなる生き物なのである。自分の存在意義を、権力を行使することによって部下あるいは同僚などにアッピールし、そして自分は会社にこのような人事を行ったことで貢献している、そもそも会社に貢献するために人事を考えたのだ、ということを実績として証明したいのである。
ITやらテクノロジーやらが発達し、情報などくそ田舎で鼻を掘っていても入手できる時代にわざわざ人間をその地に移動させる、ちゅうのはこれ旧式、アナログともいえなくもないが、今はマン・パワーちゅう言語もあるようで、人の能力を開発せしむるために未だ転勤ちゅう手法が正当のようにあつかわれているのかもしらん。
しらんが、転勤させられる方はたまったものではない。例えば共働きの夫婦だと妻が職を辞するかあるいは旦那が単身で転勤するか、あるいは餓鬼がいる一家は餓鬼が育つまで旦那が単身転勤するかもしくは餓鬼に学校を転校させ一家で転勤するか、持ち家の連中は家そのものをどうするか、人に貸すか売るか、安く売れたらローンだけが残るだとか、独身の男はようやく必死で女性をくどいている最中に転勤させられると途中であきらめる羽目になったりするし、転勤ひとつでともすれば人生の計画がぶち壊され、ともすれば失敗、破産、破滅に追いやられることにさえもなりかねない。転勤などこの時代、正気で「はい、します」と言う奴などいるのだろうか。少し酔っていないと「はい」などと言えぬだろう。これから成人して、社会に出て活躍したい奴らに、ここではっきり伝えておく。転勤したからといって何にも変化ないよ。転勤してもしなくてもしじみとはまぐりほどの変化もないよ。成長とかいうかもしらんが、とてつもなく成長の速度が速まるとかってないからね。転勤なんかをあてにしても実際人間などはそんなに変わらんのだよ。よく、餓鬼の分際で悪いことをやって捕まって、少年院に入れられて、出所したらちょっと自身の不良度数がレベルアップしたかのような錯覚を持つ餓鬼がいたが、転勤なんてあんなもんだよ。それよりも、その前に、まず、今を頑張れって話しだよ。転勤経験なくたって、そこそこの地域にすごい奴いっぱいいるからねこれ。まず、何事も今出来ることを頑張りなさい。今のそこから世界に君を発信させたまえ。世界はほら、つながっているのだから。むぎゅ。
転勤と言う名の暴力に責め苛まれた挙句少し卑屈になっているかもしらん僕の心は、なんら罪もないこの福岡は博多という街に最初憎しみを覚え、それから少し憎しみが和らぎ、途中夜泣きをしつつ、今は結構普通に暮らしている。別段特別なことは思わぬが、全く悪くない街なのではないかしらん。都会だし。空港近いし。食いもん美味いし。自分の成長は全く認識できぬが、街は良いところやけん、君らもくるけ?ばってん。
知っている街で知っている奴に恥を見られると赤面以上の恥辱を抱くが、知らん街で知らん奴に恥を見られても相手が知らん奴なので、知らん奴同士の恥など互いに興味がないものであり、つまり恥じさえ恥にならぬ、いわば無敵である。赤面など微塵もなく、表情ひとつ変えず恥を行える、これほどの無敵は人類にいるだろうか。いないと思う。
先日、最寄の駅で平坦な地面でなぜか躓き「あぎゃー」という奇声を発したけれども、発した僕自身が自ら周囲に「で?」と問うたほどである。ふむ、無敵である。これからどれほどここにいるか知らんが、僕はいっそ完全な無敵になりたいと願うほどであり、それから無敵になるために毎日同じ場所で必ず躓いているというのは嘘である。
僕は今年旅人になったため、ブログの更新がこの度まで遅延したが、今年最初のブログが今年最後になるかもしらんことが容易に予測できることから、あえてこのままこれを今年最後のブログとしてまた来年お目にかかれるまでの日々を、諸君らと僕とで、心をつなげて、心の手をつなぎ合って、みんなで一斉に平坦な道に出て、同時に躓き無敵になろう。ばってんそのまま転んだら痛かろうもん。かしこ。
# by hasumaro | 2016-12-28 15:11 | エッセイ



爆発する愛と欲の言葉達
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