人生、あはん。
2022-04-27T11:18:17+09:00
hasumaro
爆発する愛と欲の言葉達
Excite Blog
僕とお蕎麦のミルフィーユ・イン・ザ・ミソスープ
http://hasumaro.exblog.jp/32657286/
2022-04-27T11:14:00+09:00
2022-04-27T11:18:17+09:00
2022-04-27T11:14:57+09:00
hasumaro
エッセイ
なぜかというと歳を食うと若人の時代に出来たことが出来なくなるからである。なして出来ないかというと体力・能力・気力が落ちぶれるからであって、例えばカツ丼を食うにしてみても油と出汁と卵に塗れたカツに胃の力が追いつかず、中途で胸が悪い心地になり、舌や食道が一斉に拒絶をしめして、とうとうカツを米を油を卵をそして出汁を受け付けなくなる。カツに体力・気力が敗北し、カツを食う能力を失うのである。そのような敗北を味わって、心が卑屈になると、若人が「先輩、本日のランチはカツ丼どうすかどうすか?」などと舐めたことをほざきやがるのだが、ついつい「そんな奇人が食うような得体の知れぬものを食いたいなんて、だからお前は無能なんだ馬鹿野朗、くそ野朗、えんこでも食ってろ」というような暴言を吐きたくなるのもやぶさかでなくなるのであるから困った男であるが、困ったままではおられずさらに、「蕎麦。蕎麦がいいんだ。いいかい?蕎麦ほど胃に優しくて、人という生物の体力・能力・気力を維持・持続させる食い物はないのだよ。知っていたかい?ん?知らぬ?知らぬのなら早急に食わねばならんよ。ほらすぐ。例えば本日のランチとかに。そうそう今日は蕎麦にしよう」などと、本日のランチを強引ののちに蕎麦に変更させる実にわがままな男に成り下がるのである。それは僕である。あるいはラーメンという日本を代表する麺料理があるのだけれども、これは特に若人が寄ってたかって好む傾向があり、中には大人のおっさんのくせにやたらラーメンを好む奇人までおり、仕舞いには婦女子の分際でラーメンをおかわりするのまでいるくらい、僕にとっては脅威的な食い物である。そら、僕も好きだけれども、そうしょっちゅう食えぬ。なぜなら油っこいし。油を啜り続けると胸の心地に影響が出て、最後には体力気力の敗北と能力の損失を味わうことになる。そういう時も「蕎麦蕎麦蕎麦」といって若人のランチに全力で蕎麦を推し進め、若人どもの午後からの仕事においてのモチベーションの低下を招こうとも蕎麦を優先。実にわがままな蕎麦野朗である。で、気が付けば、否、中途で気が付いていたのだけれども、近頃のランチは一人である。そばには誰もおらず一人啜るそば。さみしいではないか。だから一緒にランチ行こうよ。カツとかラーメンでないやつ食いに。と言っても返答はおろか木霊すら返らず。で。で。カツ丼とラーメンの中間ちゅうか、油が少ないんだけれどもボリュームを感ずる、というか、そのような食い物はないのか、と思い立って世の中を見つめ直してみているのだけれども、そんで思いついたのが寿司。寿司はどうだろうか? 寿司というのはね、ミルフィーユですよ。ミルフィーユといえばフレンチ。米の上に生の魚を乗っけるなんて同じミルフィーユでもフレンチがびびるくらいのミルフィーユでないのかしらん。さらに世を見つめ直すと、これはピンチョスともいえる。ピンチョスといえばスパニッシュ。なまらお洒落じゃないの。スペインといえばほら、バスク帽というでかくて丸い帽子があって、僕は近頃バスク帽を被っている。きっと流行すると確信めいて被っているのだけれどもこれ、全く流行らず、一人で、たった一人で被っている。寿司がピンチョスであるということを発見した僕が、バスク帽を一人で被っている。一人で、蕎麦を食いながら、バスク帽を被って、寿司がピンチョスであることを発見している。ちゅうことは僕の発見に誰も気づかないということであり、僕の発見を誰も目撃していないという現実であり、どうだろ、どうしてこの世は孤独というものを作るのだろうか。孤独というものの本質は疎外感であり、僕の場合の根本はカツ丼とラーメンではないのだろうか。つまりこの世からカツ丼とラーメンが消え去れば、僕と蕎麦は孤独にならず、みんなバスク帽を被るのではないのか。逆に、逆に、カツ丼+ラーメン側が僕らを、蕎麦らを差別しているのではないのか。そう、僕は抵抗をせねばいかん。自分の尊厳と権利を守るために、蕎麦を啜ること、そしてバスク帽を被り続けることが僕という人間の、蕎麦という蕎麦の主権を守ることに繋がるのである。で。僕はカツ丼とラーメンという侵略者に対し、蕎麦とバスク帽で抵抗しつつ、カツ丼を絶対に食わぬと心に誓い、体力・気力・能力の維持に努め、がしかし、非常に重要なことなのだけれども、僕の最愛なるワイフがとてもラーメンが好きなため、ラーメンとは和平しようと決断し、二週に渡り週末をラーメン屋で過ごしている。「美味しい、とても美味しいじゃん」というワイフの笑顔とラーメンの湯気に、僕は平和を感じた。平和って、こんなに身近にあったんだね。ずるずるずる。バスク帽の隙間、こめかみ辺りからねっとりとした汗がしたたり落ち、ずるずる啜る太ちぢれ面のしぶきの波紋でゆがむ味噌スープの表面に、一瞬蕎麦の姿が蘇り、まるで泣き顔のようにゆがんだ蕎麦の姿を一息で呑み込んだのである。ぽちゃん。かしこ。 ]]>
詩 その48
http://hasumaro.exblog.jp/31272880/
2020-07-16T15:58:00+09:00
2020-07-16T15:59:05+09:00
2020-07-16T15:58:19+09:00
hasumaro
詩
この世を呑む
本当は誰も泣かなくていい本当は誰も悲しむことは無い本当は誰も悲しまなくていい本当は誰も争わなくていい誰も悪くない誰にも罪はないそして罰が当たらないことを知っているわたしたちは自由だ 一円のお金が増えないことを知っている愛が憎しみに変ることを知っているだからもう助けなくていい誰も救われなくていい絶望が過ぎ去れば屈辱を忘れられるわたしたちは奴隷だ そして平和でもあるそれが幸福でもあるすべてを壊さなければならない破壊の限りを尽くして瓦礫を塵に変えなければならないソファの上の埃を払わなければならない何事も無かったかのように笑う誰も笑わないのならわたしが笑うわたしだけが笑う みんなが笑ったらようやく無表情になれるそこで無視をする辺りが静まり返るまでわたしは目を閉じたやはり、誰も悲しむことは無い誰も苦しむことは無い誰も哀れむことも無い泣く必要さえ無い本当に美しいということの意味は悲しさなのだから美しいということは悲しみなのだから 一点の曇りのないガラスに落ちたのはいつも泥水である泥がガラスを曇らせるそれは美しさを知らせるためだったわたしは泥水を拭いあなたを抱きしめたあなたは粉々になって砕けてゆくわたしはあなたの美しさで血塗れになる血塗れのままあなたの悲しみを泥の中で訴えるのだ 泥水を汲んだのは誰なんだ誰が最初の悲しみを作ったんだお前らはあろうことかガラスの上で飯を食うおかわりを始めるわたしとあなたの血をお前は知らぬうちに飲み干した喉の奥で悲鳴が聞こえる本当の悲しみは最後まで飲み込まれてしまったわたしは知っている人間がなれるものは神ではなかったがために悪魔の芝居を打つそうして容易に変態になれる変態が神を名乗り悪魔と入れ替わる本当は誰も気にしなかったことをことさら大袈裟に強調して他人の不幸を肴にコップ酒をなめ今でも気づかないお前らがおでん屋ではんぺんを喰らうわたしの愛する人は一度もおでんに手を付けず自分の肉体の中からこの世界の輪郭を作り出し魂の中にこの世の終わりを焼き付けるわたしは君に酒をそそぐ味がわかるまで何度も呑みこむ呑みこんでゆく
(2015年 深雪)
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ストレスの爆発煮込み。疲労を添えて
http://hasumaro.exblog.jp/29556429/
2018-02-14T14:47:00+09:00
2018-02-14T14:55:10+09:00
2018-02-14T14:47:25+09:00
hasumaro
エッセイ
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詩 その47
http://hasumaro.exblog.jp/28306300/
2017-10-26T16:15:00+09:00
2017-10-26T16:17:12+09:00
2017-10-26T16:15:51+09:00
hasumaro
詩
曇りガラス
わたしの言葉に合理性はない
非合理な感情が自分を酔わしている
自分の言葉に自分と他人を酔わすことができるかもしれないが
でも、何を飲んだのか覚えられない
何かをいつも噛み砕いている
苦しんだり、悲しんだり
そんな虚しさがいつも最後に蘇る
いつものことなのにそれまでの最中、いつも同じ酔い方で
後に引く長い後悔にさらに酔う
そうしてまた飲み込んでゆく
遠い街に来ても心はものすごく近い
それでもまだ、この手に届かないのか
感情が、本当の姿の邪魔をして
また、素直になれない
わたしはこの心を未だ言葉にできない
本当の自分の姿は一円の金にもならない
本当の自分は今日の米粒ひとつも稼げない
心を抱えてわたしは飢え死にしないために昼間を演じている
まだ体は健康だし、トイレも近くない
もう少しこのカウンターで生きのびられる
喋ることが必要だったけれど
そこに言葉は存在したのだろうか
答えのないことが喋ることならば
それまでの言葉を覚えられないのは当然のことだろう
わたしは言葉を喋っていない
現実にはない空間を透明に向かって罵った
そこに写る自分はどうだろう
目を合わせていないからわからないか
電車の窓はスピードが速いな
信号機なんて線のようだ
自分なんてシミのようだ
雨の跡と、日向の光のようだ
この中に心を思い切り吸い込んで
漏れてゆく言葉がガタンゴトンと
ガタンゴトンと
ガタンゴトンと
(2017年 怠惰)]]>
2016年、果たしてわたしは旅に出た
http://hasumaro.exblog.jp/27396243/
2016-12-28T15:11:22+09:00
2016-12-28T15:11:22+09:00
2016-12-28T15:11:22+09:00
hasumaro
エッセイ
一度も言っていない僕が、ほとんど旅のようなことをやる羽目になったのは何の因果なのだろうか、運命にはやはり魔の手があって、人間はそれに翻弄され、果てに気が狂い、凶悪な事態を発生させ、社会を混乱に陥れる、このような繰り返しの中にはたして僕も巻き込まれたのであろうか。否、現実は全く平和であり、むかつくことが些細にあっても飯を食って寝て起きたら放屁と一緒に忘れている程度である。
北海道札幌市からスタートした旅は、途中東京を経由し、あいだに伊豆やら横浜やらを挟んで今福岡にいる。過去昔、一瞬東京は高円寺というところに在住したことがあった以外、生まれや育ちを全部札幌で済ませてきた僕にとっては全く縁もゆかりもないこの福岡ちゅう土地は、来ることも今後去ることも初体験であり、いわば童貞のようなものである。
童貞というのは童貞をやめると童貞であったことすら忘れるくらい突然粋がる生き物で、今の僕は福岡にびびっているけれども、きっといずれ粋がるであろうことは容易に予測でき、というのもその兆しがすでにあって、例えばグルメと逆の舌を持つ僕が「博多はねぇ、みんなとんこつラーメンだと思っているようだけれども、その実うどん。しかもコシがなく、ぐだぐだしたうどんがいいんだよねぇ、知ってる?」などと知ったかぶりを演ずる始末である。去る頃にはおそらく博多の歴史などを語りかねないと今から少しぞわぞわしている。
ちなみに僕が称する旅というのを、社会というか企業というか、その業界では「転勤」というのであるが、そもそもなぜ転勤をさせようと企むのか。人は出世し、その地位や権力をもつとそれを行使したくなる生き物なのである。自分の存在意義を、権力を行使することによって部下あるいは同僚などにアッピールし、そして自分は会社にこのような人事を行ったことで貢献している、そもそも会社に貢献するために人事を考えたのだ、ということを実績として証明したいのである。
ITやらテクノロジーやらが発達し、情報などくそ田舎で鼻を掘っていても入手できる時代にわざわざ人間をその地に移動させる、ちゅうのはこれ旧式、アナログともいえなくもないが、今はマン・パワーちゅう言語もあるようで、人の能力を開発せしむるために未だ転勤ちゅう手法が正当のようにあつかわれているのかもしらん。
しらんが、転勤させられる方はたまったものではない。例えば共働きの夫婦だと妻が職を辞するかあるいは旦那が単身で転勤するか、あるいは餓鬼がいる一家は餓鬼が育つまで旦那が単身転勤するかもしくは餓鬼に学校を転校させ一家で転勤するか、持ち家の連中は家そのものをどうするか、人に貸すか売るか、安く売れたらローンだけが残るだとか、独身の男はようやく必死で女性をくどいている最中に転勤させられると途中であきらめる羽目になったりするし、転勤ひとつでともすれば人生の計画がぶち壊され、ともすれば失敗、破産、破滅に追いやられることにさえもなりかねない。転勤などこの時代、正気で「はい、します」と言う奴などいるのだろうか。少し酔っていないと「はい」などと言えぬだろう。これから成人して、社会に出て活躍したい奴らに、ここではっきり伝えておく。転勤したからといって何にも変化ないよ。転勤してもしなくてもしじみとはまぐりほどの変化もないよ。成長とかいうかもしらんが、とてつもなく成長の速度が速まるとかってないからね。転勤なんかをあてにしても実際人間などはそんなに変わらんのだよ。よく、餓鬼の分際で悪いことをやって捕まって、少年院に入れられて、出所したらちょっと自身の不良度数がレベルアップしたかのような錯覚を持つ餓鬼がいたが、転勤なんてあんなもんだよ。それよりも、その前に、まず、今を頑張れって話しだよ。転勤経験なくたって、そこそこの地域にすごい奴いっぱいいるからねこれ。まず、何事も今出来ることを頑張りなさい。今のそこから世界に君を発信させたまえ。世界はほら、つながっているのだから。むぎゅ。
転勤と言う名の暴力に責め苛まれた挙句少し卑屈になっているかもしらん僕の心は、なんら罪もないこの福岡は博多という街に最初憎しみを覚え、それから少し憎しみが和らぎ、途中夜泣きをしつつ、今は結構普通に暮らしている。別段特別なことは思わぬが、全く悪くない街なのではないかしらん。都会だし。空港近いし。食いもん美味いし。自分の成長は全く認識できぬが、街は良いところやけん、君らもくるけ?ばってん。
知っている街で知っている奴に恥を見られると赤面以上の恥辱を抱くが、知らん街で知らん奴に恥を見られても相手が知らん奴なので、知らん奴同士の恥など互いに興味がないものであり、つまり恥じさえ恥にならぬ、いわば無敵である。赤面など微塵もなく、表情ひとつ変えず恥を行える、これほどの無敵は人類にいるだろうか。いないと思う。
先日、最寄の駅で平坦な地面でなぜか躓き「あぎゃー」という奇声を発したけれども、発した僕自身が自ら周囲に「で?」と問うたほどである。ふむ、無敵である。これからどれほどここにいるか知らんが、僕はいっそ完全な無敵になりたいと願うほどであり、それから無敵になるために毎日同じ場所で必ず躓いているというのは嘘である。
僕は今年旅人になったため、ブログの更新がこの度まで遅延したが、今年最初のブログが今年最後になるかもしらんことが容易に予測できることから、あえてこのままこれを今年最後のブログとしてまた来年お目にかかれるまでの日々を、諸君らと僕とで、心をつなげて、心の手をつなぎ合って、みんなで一斉に平坦な道に出て、同時に躓き無敵になろう。ばってんそのまま転んだら痛かろうもん。かしこ。
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詩 その46
http://hasumaro.exblog.jp/24618408/
2015-10-29T11:17:22+09:00
2015-10-29T11:16:55+09:00
2015-10-29T11:16:55+09:00
hasumaro
詩
Neo Nostalgia
言葉はいらないか
思いはそこにあるのか
心はあるのか
それを伝える言葉はいらないか
その先にあるのは
その先にあるのは
それを越えたものなのか
魂はあるか
それは消えずに残っているか
それは思いか
それが心なのか
その先にあるのは
その先にあるのは
それを越えたものなのか
Nostalgia
Nostalgia
Nostalgia
Nostalgia
言葉はいらないか
それを伝える言葉はいらないか
魂はあるか
ここにあるものはもういらないか
その奥にあるか
その先にあるのか
あの先に見えるのか
Nostalgia
Nostalgia
Nostalgia
Nostalgia
Nostalgia
Nostalgia
Nostalgia
Nostalgia
Nostalgia
Nostalgia
Nostalgia
Nostalgia
Nostalgia
Nostalgia
Nostalgia
Nostalgia
Nostalgia・・・
(2015年 低温)
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犬と僕の右足物語
http://hasumaro.exblog.jp/24302975/
2015-07-30T13:18:37+09:00
2015-07-30T13:18:51+09:00
2015-07-30T13:18:51+09:00
hasumaro
エッセイ
人間というのは生きているだけでゴミが溜まる。いちいち飯を食ったり尻を拭いたりするせいでそれらがゴミになるのだが、ゴミが溜まると捨てなくてはならず、しかしうっかり捨てるのを忘れると捨てなかった分が新しいゴミに上積みされ、ゴミが倍になる。僕の経験ではおおよそ10倍に上積みされたことがある。されたというかしたことがある。7倍あたりから「ゴミを捨てなくてはならん」ことを考えたくなくなり、頭脳の中からゴミの存在を打ち消すように心掛けたのだけれどもしかし、やはり頭脳から完全に打ち消すことが出来ず、ますます上積みされてゆくゴミの野郎を見るたび心がせかせかし、そのせかせかから逃れるべくゴミを打ち消すよう努力するのだけれども、同時にだったらとっとと捨てやがれ馬鹿野郎おれ、という自責の気持ちが湧き立ってせかせかと一緒に巨大に膨れ上がるものだからますます心が荒み、荒れ果て、とうとう朽ち果て、ゴミと併せて自分のこと自体が嫌いになり、人間というのは自分を好きにならなくては前向きに生きられぬ、というようなことを多くの歌手が唄にしているがそれは本当のことで、もはや全身を後に振り向かせたような心で数日生きる羽目になった結果、玄関、ベランダ、踊り場などがゴミで溢れかえり、おまけに匂いが充満し、僕の心はすでにヘドロのようにぐだぐだになって世を憎み呪い、すっかり屈折・偏屈した人間に出来上がっているのだからゴミというのは恐ろしい。あわわ。
以上の如き経験から心がせかせかした状態で暮らすとろくなことが起こらん、ということを悟った僕は常に心に落ち着きがあるよう、せかせかした事態を未然に防ぐよう心掛けている。ゴミは必ず指定日前日までにまとめ翌朝一番に捨てるようにしているし、えんこも朝一に済ませてから身軽になって一日に備えている。ゴミ捨てや排便を済ませずに別の事案に対応すると、ゴミや便を済ませていないという心配や不安が心に沸き立ってせかせかし、その事案を上手に解決出来ぬ。それどころか失敗して失敗したことがさらに心に上積みされてますますせかせかして仕舞いには気が病んで廃人になる。これでは駄目だよ、一人でこんななら全員だと社会が荒廃する、否、国が滅ぶ。そうならぬよう心に落ち着きを持ちたいものである。ほんと。
心を落ち着かせる方法をしばし思案後、思いついたのがふたつみっつあり、そのひとつめがまずみんなと仲良くする、ということ。というのは争いごとがあると争いごとに精神と神経を割かれ心がせかせかするから。だからまずは人々と仲良くして、仲良くすることによって得られる安堵を心に滲みこませたい。滲みこませることによってせかせかの入り込む余地をなくしたい。そうして僕は近隣の肉屋の店主にぺこりとやって、話題も無いのに「いやぁ、よく晴れますなぁ、これ」などと天候のことをきっかけに仲良くなれるよう試みたり、大して興味なさそうに「そうすね」などと返す肉屋の無愛想に実にむかつくのだけれどもここでむかついたらせかせかの思う壺であるということを併せて悟っている僕は「じゃ」などと切り上げてなんとか肉屋を暴行する前に立ち去ってそれからクリーニング屋のおばさんに「やや、どもども。晴れてますな」などと言ったのだけれども、万が一無愛想だったらむかつくので返事を待たずしてセブンイレブンに立ち寄ってアイスキャンデイを購入。レジスターのお姉ちゃんに「晴れてますな」と言ったのだけれども少し声量が足りなかったのか全く聞こえていませんてな感じで無表情のお姉ちゃん。むむ。言い直してもよいのだけれども、万が一一度目の「晴れますな」が聞こえていて、これをあえて無視しているというケースも考えられる。これを確認するにはもう一度「晴れてますな」を言えばよいのだが、しかしこれ、聞こえていたくせに最初から無視をされていたということが発覚した場合、すごくむかついてしょうがないではないか。やや、そこをはっきりせねば、はっきりせぬことによって逆にせかせかするのではないか。いやしかしはっきりさせて無視だったら取り返しのつかぬせかせかに襲われる。だがしかし、これを越えなければ本当の意味の心の落ち着きを得られないのではなかろうか。などとあらゆる思案をレジスターの前でしたのだけれども、これ以上思案続けると逆に怪しまれて、そもそも僕の晴れてますなが聞こえていない、いや無視をしているかもしれないこのお姉ちゃんにも非があるわけだと僕は思うのだけれども、このままレジスターの前で思案続ける僕だけが怪しまれるというのも不平等ではないか。平等に行くのなら、僕は晴れてますなを言った、という真実をまずは認識させる必要がある。お姉ちゃんに。がしかし、再度言ってこれ無視だった場合、僕だけがむかつく。どちらにせよ怪しまれるのも僕。むかつくのも僕。僕だけが損ではないか。なんだこの不平等は。なんたる不条理。などとこの理不尽にわなないているうちにさらに時間が経過しさらには僕の背後に人すら並んでいる。アイスキャンディは200円。そんなものは一瞬で支払い可能である。が、思案のためあえて200円の支払いを引き伸ばしているのだ。引き伸ばし始めてすでに10秒は経過しただろうか。ああ既にお姉ちゃんは僕をすっかり怪しんでいるように見える。ちゅうか、僕から言わせればお前が悪いのだ。普通、晴れてますなと言ったら「そうですね。お天気良いですね。ごきげんよう」くらいの返事があってしかるべきではないか。それがないから僕はお前に怪しまれる事態になったのではないのか。つまり、僕から言わせれば、お前のミスで僕が悪者になった。すべての罪はお前である。僕はお前に罰を与える権利がある。などとさらに数秒が経過。ああもう、これ以上怪しまれたくはない。ちゅうか僕は何一つ悪くない。ちゅうか、言いたくないけれどもとっくに心もせかせかしている。ぬああ。僕はお姉ちゃんの顔面目掛けて200円を放り投げ、ヤンキーのようにスラックスのポケットに両手を突っ込んで、少しがに股にして歩き出し店を出た。帰りしな肉屋が干した魚のような顔で中空を見つめていたので「邪魔じゃおらぁ」などとヤンキーが真面目なクラスメイトに理不尽に凄むような感じを表現し、「え?」などと放心する肉屋をにらみ付けて家路を急いだのである。すごく早足で。果てに駆け足で。
人間ちゅうのは愚かである。人間がこの世でコミュニケーションできるのは人間しかいないのに、それなのに人間同士ちゅうのはどこまでも分かり合えない。だから犬や猫や雉を飼って「動物って罪ないよね」などと言い逃れる輩がいるが、あんなのは愚かの極みである。そういって動物を人間社会のルールに縛りつけて無理くり安堵を得ようなんざぁこれ、偽善者の典型である。自身の引っ込み思案を棚に上げて動物を手前のコンプレックスに巻き込むなんてのは、虐待はおろかDVではないか。だから僕は動物になど頼らん。ちゅうか動物は動物で暮らせばよいのだ。山とかで。僕ら人間は町でよろしくやればいい。町を作ったのも人間なんだし、動物だってわざわざ人間臭い、えんこ臭いところで暮らさなくたっていいではないか。お互いよろしくやろうぜ。というようなことを考えたのは家路を急いで辿り着いた自宅マンションの玄関口で近所の飼い犬が僕ばかりを吼えるせいである。なぜにこの馬鹿犬は僕のみを吼えるのか。そんなに吼えたいのならもっと色んな人間に沢山吼えればよいものを、僕のみに沢山吼えるのである。このような馬鹿犬の飼い主もきっと馬鹿であろう、と確信して飼い主を見てみると、似つかわしくないピンク色の若者風情のスウェットのセットアップを着込んだ初老の婦人。加えてさも吼えた飼い犬ではなく、吼えられた僕を軽蔑するかのように「よしよし、えらいね。一杯吼えてえらいね」などと言って馬鹿犬の額をなでていやがるのだ。僕は人間です。あなたも。だったら犬にばかりえこひいきしないで、吼えられた人間を少しはかばう、ちゅうか無闇に吼えまくる犬を注意しろよ。だから僕ら人間同士が仲良くなれない、これが要因ではないか。犬がそんなに偉いのか。吼えられておびえる僕は可愛そうではないのか。僕はここの辺りをこの婆にわからせたい。僕は本当は人間と仲良くしたい。婆に「晴れてますな」と言って婆に「ごきげんよう」などと言われたい。なのにこの有様はなんたることか。吼える犬が偉いのなら吼えられる僕が馬鹿なのか。お前はそう言いたいのか。僕のせかせかはとうとうむかむかに変わった。この野郎。なめやがって。ふぁっ。と婆に襲い掛かろうと決意し踵を返して突進した時、すでに婆も犬もなく、結構遠くで犬はえんこし、婆はそれを拾い上げるなどしていた。なまら暑い夏の真昼。陽炎の中で犬と婆がたゆたっている。それを見つめる僕の両目からふたすじの涙の如きが流れた。悲しさではない。無念だ。人間はなしてこうも分かり合えないのか。平和とはなんなのか。戦後70年。世界では未だ戦争が続く。殺し合いを行っている。殺し合いの果てにあるのはなんなのか。人間は何のために殺し合うことを選択するのか。無力な僕らはただそれを見つめるしかないのか。過ぎ去る景色の一部としてただ両目の中を流れてゆくだけなのだろうか。僕はただ陽炎の中を見つめた。陽炎の中で婆が振り返り、そして僕を見つめる。ふたりは真夏の真昼、たゆたいながら見つめあった。陽炎の中で見つめあった。犬が吼えた。僕に向かって僕のみを吼えた。「うるせぇ馬鹿犬っ」叫んだ瞬間陽炎は止み、そこには犬の姿も婆の姿もなかった。何もかもが消えていた。「ごきげんよう」どこからかそんな声が聞こえた気がした。
心が落ち着くとあらゆることが思いつく。逆に心がせかせかするのはたったひとつの物事を解決出来ず、解決するのを先延ばしにして怠け、結局怠けた分だけさらなる物事が上積みされ、果てには身動きできなくなってせかせかに心が支配される。レイプされる。心を落ち着かせるためには、ひとつひとつの物事をひとつひとつ解決してゆくことが大事。つまり人は怠けてはいかんのだ。怠けず、頭脳をフルに回転させていると色んなアイデアが沸き立って、ともすれば世界の戦争紛争も解決できるような画期的なアイデアさえ思いつくかもしらん。怠けたまま肉屋やお姉ちゃんに天候のことを言っても無視されるに決まっている。そら犬も吼えるだろう。僕は怠けていた。怠けることをまずやめよう、と決意。そして解決すべき物事のひとつめを考えたのだけれどもなんと思い浮かばぬというではないか。ちゅうことは、せかせかの原因は最初から別のことで、つまり僕は僕のせかせかの原因を理解していないということになる。これはやばいと思う。というのは、人は人として生まれた理由というのを欲しがる生き物だ。生まれた時点で人は餓鬼なので理由を理解できんが、その後「これが理由では?」などと理由を作り、いわゆるアイデンティティとなる。がしかし、僕はせかせかの理由がわからん。つまりアイデンティティがない。存在意義がない。存在理由がない、ということになる。何のためにせかせかしているのかわからん男に心もへちまもらっきょもない。ともすればこれからもただひたすらせかせかし続けなくてはならん。生まれた理由も知らず、全うな人生などあるはずもない。現状の自分を認めたくないあまりに自分探しと称して放浪する人があるが、あれは実に愚かしく哀れな行為とあざ笑って尻を掻いていたが、僕の場合はせかせか探しをしないといけない。僕のせかせかは何なのか。自分を探すのはなしてか。現状の自分が阿呆だとそら認めたくない気持ちはわかる。自分に自信がないと沢山失敗し損もするだろう。失敗に教訓を得ず、さらに失敗を上積みしてゆくと結果阿呆になる。阿呆とは自信を失った人の成れの果てなのか。ということは自分探しとは自分の自信探しであり、逆から言うと自信がないから現状を認めたくない。僕のせかせかは自信のなさがひるがえり、仕舞いに諦めとなって怠けを生んだ。自信を作る手順が面倒臭くなったのだ。しかし心はそれを抵抗した。心は「諦めちゃダメ、ゼッタイ」と僕に訴え、励ましていたのだ。しかし諦めたかった僕との狭間でせかせかを生んだのではないか。心の訴え、励ましを、僕は無視していたのだ。そら肉屋もお姉ちゃんにも無視されるだろう。犬に吼えられてしかるべきである。ああ、僕という男は何たる愚かな男なのだろうか。むしろこの愚かさこそが僕のアイデンティティではないか。つまり僕は愚かになるために生まれてきた、ということになる。これはやばくない? とてもやばくない? うん、やばいと思う。僕はこんな男になりたくは無かった。出来ることなら立派になりたかった。今からでも遅くないのなら、すぐさま立派になりたい。そのためにはまず自分の自信を作り、せかせかを彼方へ放り捨てる必要がある。すぐさま自信を作る必要があるため、すごく身近な自信を探すことにした。身近な自信、といえばなんだろ、すぐさま思いつくことといったら、犬に必ず吼えられる、ことしか思い浮かばない、なんちゅう貧相な自信だ。ちゅうかこれ、そもそも自信と言えるのかわからんが、僕にはそれを問うてる時間がない。とりあえず僕は先ほどの犬の方角に向かって走り出した。婆も犬もとっくにいない方角に向かって走り出した。走っている最中に景色が歪み、それはさっき見たあの陽炎だった。陽炎の中に僕は全身を放り出し、必死にもがいた。木が歪み、歩道が歪んだ。雑草がたゆたい、隣接するパチンコ店、カーリング場などが一斉に陽炎の中に吸い込まれてゆく。その中に肉屋がいた。お姉ちゃんがいた。みんな笑顔に見える。陽炎の中でたゆたい、みんな笑顔になっている。僕も笑った。あえて大げさに笑った。やはり人間は、人類は世界の安堵を作るのだ。僕は感動のあまり泣いた。とても泣いた。そして痛かった。犬が僕の右足を噛んでいた。婆は犬を撫でていた。僕は全員をぶん殴った。かしこ。
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そして最後に腰痛だけが残った
http://hasumaro.exblog.jp/23881292/
2015-04-09T13:17:00+09:00
2015-04-09T15:43:25+09:00
2015-04-09T13:17:59+09:00
hasumaro
エッセイ
例えば花瓶の中の水のように不意に揺らすと波紋が出来るような。あるいは筒状のスナック菓子の空箱の中の残りカスのようにカサカサしたり。あるいは餓鬼の頃の青っ洟が寒気に凍てついた挙句、指で掘っても届かぬくらい穴の果ての塊のような。そんな形があるのならばいっそ眼前に晒して一度眺めてみたいものである。血。
心というのは人の思いで出来ている。そうであるのならばその心を表すのは、表現するのは言葉なのではないか。そうであるのならば沢山読書をして文章を書いて言葉を練習したら、いかなる心も言葉で表すことが出来るはずである。しかし出来ぬのである。なぜだろ。なぜかしらん。インターネットやフェイスブックやツイッターや、あらゆる手段のコミュニケーションツールが発達しても、肝心の言葉が発達しない、むしろ文明が発達しすぎて言葉の重要度が低くなっている。言葉なんかなくてもネットでへらへらしてたら何となく友達も出来るし、食った飯の写真を画面に掲示しているだけで「うまそ」「まずそ」といった会話も交わせるし、今や言葉に苦労しなくても人と関係が持てる。そうしてどんどん言葉が低迷し、心が置き去りにされ、おランチをおかわりして屁をこいて日々が過ぎ去り、電波だけが極限以上に発達してゆく。
僕は言葉が大事だと思っている。だから言葉に実に謙虚ですらあると自負する。自分の心が、思いが伝わらぬのは僕の言葉が駄目だから、と常に反省すらする。相手が阿呆でも、その阿呆がどうして阿呆なのかを伝えられぬ自分が阿呆とすら思う。その阿呆がやがて自惚れてデビュウしても、この阿呆を世に放ったのは自分の責任であるとすら思い自分を責め苛む。ああ、言葉って。言葉って奴は。などと常に嘆いて暮らしている。
愛する人に愛している思いを伝えようとすると、言葉というのはふらふらする。迷路の手前で尻を掻きながら右か左か迷うようなそんな気持ちが心に芽生える。「愛している」という一言が白々しくすら思う。そんな一言で表し切れぬ思いが心の中で溢れかえり、言葉の選択肢を狭める。いかなる言葉も軽く感じ、芋焼酎を呑んで「おや、これは薩摩だね」なんつう知ったか振りの様にならぬカッコつけのように感じて羞恥心が尻に刺さる。愛する思いとはこんなものじゃない、と今度は力みすら覚え、両肩にめい一杯力をこめて言葉を発しようとすると、さらに思いと言葉の距離が離れ、言語すらままならぬような呻き声を発してしまって気味の悪さだけが相手に伝わり、蓮麿という人間の根源的な名誉さえ失いそうになるのだ。
それでも、これだけの苦労の果てに言葉を見つけられたなら、これすら苦労と思わなくなるのではないか、という期待、希望をもって僕は今日も言葉と格闘するのだけれでも、そうして四十路を越えた今、ともすれば生涯言葉が見つからぬのでは? といった不安を抱くようになってきた。この不安というのはリアリズムである。四十路を越えたら、人はあと何年生きられるのだろう、といった死のリアリズムである。僕は死にたくないと思うが、言葉が見つからないまま死ぬのは死以上の死、即ち蓮麿という自身の否定である。否定というのは生きていること、生きてきたこと、人生全てを殺すこと。従って生きた証がゼロということである。それはいかん。いかんです。だって今生きているのに直ちにゼロになると明日からどうすんの? 否定の先は虚無。匂いもたたぬおなら。ただの空気。ゼロ。ゼロ麿。やばい。やばいじゃん。血。
生きた証を残すために飯の写真をパソコンに貼ろうか。勝手に他人が商う店先を写真に収めて無許可で貼ろうか。頼まれてもいないのに店主が拵える飯の評価をパソコンに書き込もうか。言葉が未熟だと発想が真逆の方角に発展してゆく。この世もこの国も同じではないのか。一番大切なことを蔑ろにすると、実にくだらないことばかりが目立つようになる。今まさに瀕死に喘ぐ人を具体的に助ける手段が瞬時に浮かばないからといって、簡単に思いつく「がんばろ」「どんまい」などと言った小学校の入り口に貼られたスローガンの如きことをほざく。今心臓が止まりそうな人に「がんばろ」もへったくれもない。それを身を削る思いで看取る遺族に「どんまい」も屁もおならもない。こんな時、どんな言葉が必要なのか。それともそもそも言葉など必要ないのか。言葉を失ったら今死にゆく人に「愛している」と伝えられない。この一言のために何千億、何万億の言葉が必要だというのか。そして無意味だったというのか。言葉の残骸が秋の枯葉の如く積み重なり、冬になると消え失せる。実に虚しいではないか。人間の言葉とはなんなのか。必要であるはずなのに、どうして伝わらないのか。僕は愛に憎しみを抱く。僕の言葉は愛憎に変わった。言葉を信じるがあまり、言葉を愛するがあまり、僕の心はとうとう憎しみだけになったのだ。
言葉を捨て、僕は心をジェスチャーで表す。そう決めてから、例えば腹が減った時、一旦直立してから尻のみを突き出して、さらに顔面を天井に向け、最後に顎を突き出す。これが腹が減った、という心を表すことと決めた。で。そうして我が家のリビング・ダイニングでジェスチャーしたが妻はきょとんとしている。で。で。これで伝わらない場合の秘策として、腹をさすりながら「あぁあぁ~」と喘ぎをもらしながら再度ジェスチャーを試みた。が。妻はきょとんどころか無視をして洗濯を始めた。で。秘策が尽きた僕は言葉以外で空腹を伝える手段を思案したがこれ思いつかぬことに瞬時に悟り、思わず「腹減った」と言葉を使ってしまった。言葉を捨てたはずの、あの時の決意を、そして愛憎を、こんなにも早く呆気なく裏切ってしまった自責を抱きつつも、あえてもう一度「腹減った」と言った僕のこの「あえて」という心はどこから来たのだろ。あえて、とは何なのだろう。どうして、あえて、なのだろう。僕はあえての謎を解き明かすために今一度「腹減った」と言ってみた。途端、今とても忙しいのだからもう少し待ってて欲しい、というか、今の状況を見たら忙しいということが伝わらないのか、いちいち言葉で表さないとあなたはわからない人なのか、という意味のことを妻が僕に言った。いや、いやいやいや、違う、違うのだよ。僕は僕の「あえて」を知りたくてあえて今一度腹減ったとあえて言っただけで、忙しい君にあえて「腹減ったのだから飯を作りやがれ」という意味で言ったのではないのだよ、という思いを伝えようとしたのだけれども、やはりさっきまで言葉を捨てていたことが祟って言葉が思うように思い浮かばず、口をもごもごさせながら尻と顎を突き出したまま、洗濯機を忙しそうに操る妻の後姿を尻目に一人リビング・ダイニングで突き出した尻と顎の位置を変えず、そのまま上半身を二三度折り曲げ「僕に気にせず洗濯に集中してください」という意味のジェスチャーをこっそり繰り返したのである。かしこ。
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詩 その45
http://hasumaro.exblog.jp/23586729/
2015-01-23T13:14:00+09:00
2015-01-23T13:18:58+09:00
2015-01-23T13:14:24+09:00
hasumaro
詩
もう飯は食わない
心の中の思いが
体の中を通るうちに
思いもしない姿になって
口を伝って表に漏れる
頭の中の言葉が
喉の根本をうろつくうちに
思いもしない形になって
口を伝って溢れてしまう
思いを心の中にしまい込んで
言葉を喉の奥に飲み込んだら
わたしの価値は何なのだろう
わたしに価値があるのだろうか
人は死んだように生きることが出来る
何もせずにそこに生き残ることが出来る
埃が落ちるように歩くことが出来る
水溜りに映る顔を見ないでまたぐことが出来る
そこに価値をつけるのは他人だ
わたしが決められるのは明日の晩飯だけ
たぶんおかわりをするだろう
心の中にしまい込んだものは
やがて必ず狂いだす
言葉にならなかった思いは
大切なものを傷つける
手を伸ばしても届かない時
わたしはそれを初めて知る
それを愚かだと決めるのは自分
あなたではない
あなたではなかった
古い家の軒先に垂れた氷柱が
いつ落ちるのを待つか
海辺でこき使われた椰子の木の実が
あきらめて落ちるのを待つか
夕焼けはそれを教えない
ただ今日という日の幕を下ろすだけ
影の中でわたしの腹が減る
思いがここにあるというのに
言葉がここにあるというのに
必死に手を伸ばした振りをしたのは
腹が減ったのを隠すためだったのか
それでもわたしはおかわりをしたんだ
ごちそうさまでした
もう、飯は食わない
(2014年7月 捻挫)
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こしあんのような豆が降る
http://hasumaro.exblog.jp/23281389/
2014-11-14T16:05:56+09:00
2014-11-14T16:06:34+09:00
2014-11-14T16:06:34+09:00
hasumaro
エッセイ
かつてつるんとした少年時代にはあんこを結構食っていた。あんまん、あんぱん、あんドーナッツ、あんころもち、ぜんざい、おしるこ等など、今となれば意外なほどにあんこメニューを制覇してきており、当時ともすればあんこチルドレンなどと形容されると「うん、そうだけど」と、おでん屋のぱんぺんくらい当たり前の気持ちで返事をしながらたぶん屁もこいていたと思ふ。むわん。
飲酒とあんこがなぜ相成れないのだろうか、そのメカニズムはわからぬが、現在晩酌などをしていてあんこが欲しくなることは皆無である。あのあんこというのはなんだったのだろう。どうしてあんこを必要としなくなったのか。あんこは今どうしているのだろう。どこで誰のもとであんことして存在しているのだろう。秋というのは淋しい季節だ。これからでかい顔して訪れる冬の野郎にその存在すら蹂躙され、また一年間忘れられる。秋とあんこは似ている。僕はあんこを忘れたくない。決して忘れない。嗚呼あんこ。などと嘆いてもやはりこれ食いたくないのが現在のあんこである。
あんこに拘わらずかつて好きだったものが現在好きではなくなった、というのは結構ある。例えば洋服。以前はわりと黒っぽい感じのコーディネイトを好んでいたのだけれども、いつも黒い服を着ているといつしか心も黒くなりやがて気分も黒くなる、黒って色は人の内部を黒く染め、挙句いつまでも乾かぬ日陰の水溜りのようにずぶずぶした陰気な人間に成長し、そうすると婦女子にはもてぬわ、同姓には好まれぬわ、結果恋人も友人もできぬ男に成り下がり、毎夜壁紙に映る自分の黒い影に話しかけて回答の無い現実に涙するような男に落ちぶれる。そうはなりたくない、と強い決心をしたわけではないのだけれども、年齢と共に、不意に、湯をわかしたら湯気をあげるくらい自然と黒い服が少なくなり、現在では青とか赤とか黄色とか、信号機のような姿で近隣をうろついているのだから実に賑やかであり怪しげな男に成り果てている。困ったものである。
あんこと黒に共通するのは「飽きた」という気持ちではないだろうか。そらあんこを立て続けにおかわりしたりパンティまで黒くしたら飽きるに決まっている。好きという気持ちは人を盲目にさせるもので、好きなあまりついおかわりをし過ぎて、やがて茶碗一杯すら食いたくなくなるものである。そして無理にやめなくても肉体と内部が共鳴し拒絶を開始する。だから湯気のように自然とあんこや黒をやめるのではないだろうか、ということにようやく気付いた僕はこれからの人生、生涯を通じて全裸で飲酒しようと企んでいるというのは嘘である。
居酒屋というのは肴のデパートのようなもので、例えばビールに枝豆、焼酎にたこわさ、日本酒にあんきも、なんて必ずぴったりのコーディネイトが用意されている。そこにあんこはない。やはりあんこが忘れられるのは必然なのかもしらん。従って僕が飲酒を始めて以来あんこを忘れた現在というのも必然であった。加えて年を食うと葬式が多くなる。葬式には黒い礼服を着るのが儀礼であって、そうした環境にあると普段まで黒はいやんになる。そうして黒をやめていくのもまた必然ではなかろうか。これが大人というものであり、いつまでも黒いままであんこを啜っているのは餓鬼なのだ。大人は餓鬼の頃のギャグを聞いてももはや笑うことさえできない。餓鬼が「ちんこちんこ」などと言っているのを聞くにつけ「この餓鬼はたぶん馬鹿なのだろう」と思ふのが大人である。それを四十路になって「ちんこ」と言うと大人社会の落伍者である。一度笑ってくれたかつての餓鬼仲間の好意を忘れられず、未だに過去にしがみつき「ちんこ」を叫ぶ、実に悲しい現実。哀れとすら思ふ。餓鬼というのはあんこのおかわりと一緒で飽きるまでちんこを叫ぶ。大人はちんこに飽きているのだよ、とむしろ大人は責任をもって餓鬼に教えてやらんといかんのではないか。僕は僕たち私たちは、ちんこに飽き、あんこに飽き、そして黒に飽きた大人たちなのだ。僕たち私たちは大人というものを実行する。これが正しい世界なのではないのかしらん。
で、で。飲酒をしながら考えているうちにふと気付いたのは今まさに着用している部屋着が黒であること。これはいかんのでは? と思った僕は妻の居ぬ間にパンティを履き替えようと決意。手短な場所に干してあった桃色のパンティに穿き替えたのだけれどもこれだけでは何だか心が不満足であるということに気付いた。で、全身をカラフルにしたろかしらん、と企てた僕はカラフルな服を探してみたのだけれども、こういう大事な時に限って洗濯されておらず、箪笥にあるのはどれも黒っぽい服ばかり。いやん。しばらく思案の後、どうだろ、いっそ全裸になってみては? という悪魔か神のどちらかの囁きが僕の左耳に聞こえ、聞こえてしまったものを無視するのも如何なものか、と思った僕は妻の居ぬ間に一度急いで全裸になった。あはは。ぷらん。全裸になっちゃった。そうしてなぜか一声だけ笑ってまた晩酌。うん。まあまあな気分というのかな、何を上限というか達成度としてまあまあなのかはしらんがまあまあな気分のまま根拠は追求せず、そのまま晩酌を進めるうち、黒に飽きたこれからの人生を思い描いてみたのである。例えば黒以外の好きな色は何だろうか。赤かしらん。黄かしらん。否、どれもそれほどでもない。だからと言ってこのまま全裸で暮らすわけにもいかぬだろう。なぜなら全裸のまま働きに行くわけにも行かぬし、行ったら行ったで変態と誤解され逮捕される。逮捕されたら職を失い、妻も失う。挙句裁判で有罪が確定すると刑務所に入所し、そうなると出所しても職につけるかわからない。あんこ工場に面接に行っても落ちるだろう。ああ、男一代この世に生れ落ち、世に名を残せず死ぬのは何たる無念か。否、全裸で逮捕された男、として逆の意味で有名になり汚名だけを残すことになる。実に忍びない。僕の全裸は僕と僕たち私たちみんなを不幸にする。嗚呼、秋は淋しい。これから訪れる長い冬のせいでさらに心は沈むだろう。そして寒い。全裸はすごく寒い。冬の全裸は肉体までも凍てつかせる。「さあ、服を着よう」と一人呟き、ゆっくりと立ち上がった僕の眼前に居ぬはずの妻の姿。僕の文章力及び筆力では到底表現しきれぬような表情だったのでここでは書かぬが、僕は妻と目を合わせぬよう「いやぁ、寒いね、ほんと」などと言った声が震えていた。寒さのせいではなかった。ぷらん。かしこ。
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平和のぱんぱん麺
http://hasumaro.exblog.jp/22613103/
2014-07-25T17:59:37+09:00
2014-07-25T18:00:16+09:00
2014-07-25T18:00:16+09:00
hasumaro
エッセイ
「穏やか」というのを辞書を引いていないので詳細は知らんが、たぶん、正午過ぎの日差しをベランダなどで浴びつつ、思わず微笑むくらいの顔つきで、アイス・カフェオーレなんかを飲みながら過ごしている時に「穏やかだな」という気持ちを抱くと思うのだけれども、そんな風に生きたいな、と僕は思っているので、2年前の初詣以来毎年「穏やかに生きたいです」と祈っている。願っている。
そんな祈り・願いから普段むかつくことがあっても多少目を瞑っているのだけれども、例えば「頑固」という個人の性格・人格を売りにしているラーメン屋などに入店して、明らかにその性格・人格を表情・態度で表現する店主があえて醸し出す不穏な雰囲気の中で麺を啜るうちに言い知れぬ怒りに似た、否超えた感情が芽生えた時でさえ僕は、ここで怒りを言動・行動で実行に移した瞬間、自分の2年前からの祈りが願いが叶わずに崩壊してしまう、その絶望を想像して必死に我慢している。いわば僕の穏やかへの祈り・願いは怒りを超えた、もはや誓い、否使命のようなレベルに達しているといっても過言ではないのである。
しかしこうした僕の使命がすこぶる評判の悪い時がある。それは近親者、例えば妻が何かのトラブルに見舞われた時にその評判が一気に失墜するのである。僕は自らの使命からトラブルを穏便に済ます方向で調整を図るのだけれども、しかしこのような対応が弱腰・腰抜けなどと誤解を受けることがあり、その際、僕の祈り・願い、そして使命のことについて説明をするのだけれどもそれがなかなか伝わらない。やはり人というのは矛盾・不条理に対面した時、瞬時に反応するのが怒りという感情である。これを表面に示さなければ他者の信用は得られない。僕の場合妻の愛が僕から離れかねない、夫婦愛の危機ともいえる。これはやばい。やばいよ。と悟った時にはすでに遅い。しかし遅いといって諦めたら妻は僕を愛から見限ってしまう。どうしよ。どうしよかしらん。そうした焦りがめりめりと肉体の中にめりこんで、やがて心の中がぱんぱんになる。そのぱんぱんを世の人々はストレスと呼ぶ。このストレスを開放する唯一の手段はそのぱんぱんを自ら開放させること。この場合の手段は「怒り」である。そもそもこのような事態、つまり僕の祈り・願い、そして使命を崩壊させた元凶は、妻へトラブルを見舞った奴である。この野郎。馬鹿野郎。お前のせいで僕の穏やかはぱんぱんの中で弾け飛んだぞ糞野郎。そして怒りによるぱんぱん破裂の破片を奴の肉体、頭脳、果てに全身に浴びせるのだっ。やや八つ当たり気味だが、そもそもトラブルを他人に見舞った時点で他人の怒りを買っているわけだから、僕の怒りもついでに買え。ちなみにこれは個別的自衛権ではない。僕ら夫婦の集団的自衛権である。
穏やか、というのは平たくいうと平和ということである。平和というのをさらに平べったくいうとトラブルのない今の現状を表す言葉である。しかし僕がベランダでアイス・カフェオーレを飲んでいる最中、隣人が「お前がカフェオーレを飲みながらたたずんでいるまさにその位置に、正午の日差しが差し込むはずなのにお前がその位置でアイス・カフェオーレを飲んでいるせいで我が家に日差しが差し込まない。日照権の侵害だ」だのと訴えてきた場合、「やや、すみません」だのと直ちに謝罪すると二度と正午にアイス・カフェオーレを飲むことが出来なくなるのだ。アイス・カフェオーレが飲めないと僕の平和が訪れなくなる。この場合、僕の平和のために戦わねばならなくなる。それがカフェオーレ戦争である。そうして果てに殺しあうのが人間社会の愚かさであり、そうした人間の愚かさを知っているからこそ僕は穏やかに生きたい、平和に暮らしたいと祈り・願い、それこそが僕の使命であり、僕自身がまさしく憲法9条だといっても過言ではないのだが、このような平和を壊すトラブルを人間自身がこしらえている、これがこの世界なのである。実に矛盾ではないのか。みんな平和がいいんじゃないの? 戦争いやんていうじゃない? と世に問うてもトラブルはやまない。人間は止まらない。人間は加速をするのである。
平和の実現とはトラブルを無視することである。カフェオーレを二度とベランダで飲まずじめじめした湿度の沸騰した自室の中で汗だくで飲むことである。近親者が被害にあっても神社で祈って終わりである。助けない。戦わない。これが平和ではないのか。平和主義者ではないのか。全員が平和を理解したら全員で一斉にベランダを撤去し、自室のみでカフェオーレを飲まねばならない。これが全員に浸透した時、世界平和が訪れる。愚かな平和だが、平和にさえなれば愚かでも馬鹿臭くてもいい。これが僕の当初の祈り・願い、そして使命の果てで得た平和の真実である。この平和の真実を全員が知るべきではないのか、と僕は思う。つまり平和革命である。まずこの革命を知るべきは「頑固」を売りにした、「頑固」という個人的性格・人格に付加価値があると誤解しているラーメン屋の店主に、お前こそが平和を乱している、ということを教えねばならない。僕は750円を握り締めて頑固ラーメンへ向かう革命闘士。闘争資金としては実に安値。リーズナブル。うほ。
で、で、ラーメン屋へ入店した僕は岩がさらに凝固したような顔の店主に無言でカウンター席に通され、まるで巡査に交番の中で叱られる中学生のヤンキーのような姿でラーメンを待ったのだけれども、ここでふともうひとつの真実に気付いた。というのはいわば何もしないこと、戦わないことが平和を実現する唯一の手段であり、ちゅうことはこれこの場合、ただ不穏な店内で偉そうな店主の自惚れた応対に耐えながら麺を啜って店を出る、ただの一般客と同じ有様となって、どこにも革命がないではないか。気付いた瞬間なんだかラーメンが食いたくなくなってきた。しかし今更注文を変えるときっとこの店主は「はぁ? 今更何言っていやがるんだこのタコ」などと僕を罵倒するだろう。タコと呼ばれて平和もへったくれもない。その時は僕も怒る。へったくれもなくなった時点できっと平和への祈り・願いなどどうでもよくなっているし、ここで立ち上がらねば男が廃る。廃った男は死んだも同然。どうせ死ぬなら僕は桜木のように鮮やかに散りたい。男とはそういうものではないか? などとどちらかというと体育会系のマッチョを幼少時分から陰で馬鹿にしていたひねくれ者の僕が、しかしやはり僕の中の自我・男がうねりを上げる。こんな、タコ呼ばわりするおっさんに、正式にはまだ呼ばれてこそいないが、きっと呼ばわりするであろうおっさんに利益を与えたくはない。750円といえども、750円の積み重ねでおっさんはキャバクラに行ったりランパブに行ったりあんかけ焼きそばを食うのである。僕はこいつに積み重なりたくない。たかが750円を払いたくない時点で男らしくないという人もいるかも知らんが、そら僕も少し思ふ。だがね、その750円で損失するのは身銭だけではなくて、僕の、男の魂の損失に値するのだよ、ということを知ってほしい。だから僕は決してけち臭い気持ちで言っているのではない。750円の背景には、すごく重要な、魂の本体がまさに並々と溢れかえっているんだよ。ほんと。などと口に出さず心の中で魂を熱く沸騰させているうちに眼前に運ばれた煮干赤味噌豚骨ラーメン。「あ、しまった」と思わず口には出さず顔で表したまま店主の方を見上げた僕に向かってなんと店主は飛びっきりの笑顔で「待たせてごめんね、いつもありがとう」などと会釈さえする始末。え? と今度は口に出した僕は瞬時に「いえいえ、こちらこそ」などと何のこちらか知らんがそう言い、それから言語に変換できぬ言い知れぬ、実に複雑な気持ちになってとりあえずラーメンを啜ると煮干と赤味噌と豚骨のしつこいハーモニーに無理矢理食欲が引き出されて、うま、うま、などと馬のように啜り上げたのだけれども、これもまた平和だと思う僕の平和が間違えているのだとしたら逆に何が平和なのかを教えて欲しい。かしこ。
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胃と膀胱のアプローチ
http://hasumaro.exblog.jp/22281145/
2014-06-12T12:40:43+09:00
2014-06-12T12:40:45+09:00
2014-06-12T12:40:45+09:00
hasumaro
エッセイ
僕という男の生い立ち、体験、経験等により形成された性格が関係しているのか、団体競技というのが実に苦手であるのだが、苦手である原因というのが集団の中には必ず嫌なやつ、悪いやつ、嫌いなやつ、臭いやつ、漏らすやつ、などが混ざるからであり、そのようなやつらと関わるのが嫌な僕は必然と団体競技が苦手となったのである。競技の内容以前の問題だが、得てして団体競技というのは人間関係が深く影響するのである。
そんな僕が、なんの因果か血迷ったのか、野球という団体競技をやったことがあるのだから呆れたのに屁が出る。野球というのは実に人間関係が深く関わる競技であり、集団でひとつの目的を果たすためにあらゆる規制を設け、そこからはみ出るやつは補欠あるいは二軍あるいは解雇となる。例をあげると、大抵少し肥満したやつはキャッチャーをやらされる。たとえピッチャーをやりたくても絶対にやれない。テストさえしてもらえない。理由はただひとつ、でぶだから。いつからでぶはキャッチャーという法則ができたのか調べていないので知らんが、当時僕もでぶはキャッチャーと信じていたものだ。それから身長の低いやつはセカンド。打順は二番。これもいくらファーストを守りたいだの、四番を打ちたいだの駄々をこねても駄目で、絶対に二番セカンドなのである。同じく理由は知らない。あるいは背の高いやつはピッチャーだとか声のでかいやつはランナーコーチャーだとか、何だか知らんが当時の僕もそうした根拠のない法則を、まるで神の審判かのように疑うことなく信じ込んでいたものだ。アーメン。
でぶもでぶで特に主張、反発もせずキャッチャーをやるのだが、冷静に考えると実に差別的なポジショニングである。人間というのは個人でいると差別がない。なぜなら一人だから。集団になると必ず差別があるもので、しかしその差別に慣れると疑わなくなるのだ。つまり差別が当たり前になり常識になる。常識になってようやく疑問を抱かなくなり、集団の一部になれるのだ。野球というのはこうして、ものすごく根源的な人間関係に左右されて成り立っているスポーツなのである。
もっというとあきらかに下手糞なやつがレギュラーを獲得することがある。理由はそいつが監督の息子だったり親族だったり、コーチの長男だったり、発言権を持つチーム・スポンサーの甥っ子だったりするからである。ここまでくると談合というか裏口入学的であり、コンプライアンス違反である。そんならいくら頑張って練習しても、明らかにその身内らよりも上手くてもレギュラーにはなれん。悪しき慣習、権力の乱用、野球というのはブラック企業のようなものではないか。ということになる。
人間関係というのが一番悪く作用した場合、ブラック企業のようなものを生む。それが人間の社会である。僕にとって団体競技というのはその競技における実技以上に人間関係のストレスがでかいものだった。だからやめちゃった。
一方でそうした悪しき慣習、権力の乱用を、悪しきものだ、乱用だ、と一切思わないやつも出てくる。つまり権力側に迎合するやつである。そのようなやつは大抵後輩をいじめる。そしてでぶをキャッチャーにする。ピッチャーとしての能力を試さず、キャッチャーだと差別をするのだ。僕はこのようなやつが嫌いだった。このようなやつが嫌いなまま大人になったので、現在もブラック企業は嫌いである。でも悲しいかな、人間は蓮麿ばかりではないので、場合によっては僕のほうが阿呆あるいは馬鹿、ということになり、翻って僕が差別的と言われたりしちゃう。困っちゃうが、野球をしているやつ、したことあるやつ全員を嫌いなわけじゃない。ただし、僕はこのような経験・体験をし、それに基づいて嫌いなやつを書いたのであって、野球選手を差別したわけではない。というようなことを言っても一度むかつけばしばらくむかついているのが人間であって、その人間らが固まってやっているのが野球であり社会そのものなのである。僕もその一部に過ぎないのだ。ここから超越したい人は新たな神様のひとつでも作らなくちゃならなくなる。実に人間というのは無限にややこやしく、面倒である。ほんと。
で、で。数年前から他人にのせられてゴルフという個人競技をやっているのだけれども、これがちっとも上手くならん。そして心の底から自然と沸き立つくらいの「好き」という気持ちに未だ出会っていない。どちらかというと嫌いなほうに近い感じがしている。仕事の関係だの大人・おっさんの付き合いだの何だのがあって補欠に回るわけにいかぬ事情があるのだけれどもこれ、自分は実は個人競技にすら向いていないのではないのか知らん、と最近薄っすら思っている。アイアンだか何だか知らんが、長い耳かきのような棒を振って玉を飛ばして「ナイスショット」とか言っているのが底冷えするほど白々しい。下手糞なくせにクラブ買い替えようかしらんとか、嵌った振りをしているのが空々しい。何というか、言いし得ぬ薄ら寒い悪寒を感ずるのである。これは何という感覚なのだろう。初めてセックスをした後、しばらくの間婦女子を舐めて見下す、という男の潜在意識に潜む筋肉的・マッチョな本能めいたものに近い。ゴルフをやれば大人・セレブ。やれない連中へ差をつけた気になる、この屈曲した優越感。若い頃のハングリー、不条理へ対する反骨・反発心とは真逆の気持ち。これを抱くと大切だったはずの自分の心の核を失うのではなかろうか、という焦燥感。そんな色んなものを複雑に複合的に一斉に抱きつつアイアン・ショット。こんな精神では上手くなるはずがない、と思う。ゴルフというスポーツに、ソープランドに行って風俗嬢に説教しつつ延長するおっさんのような、快楽の果て、道楽の最果て、精神を失った、ただただ本能が剥き出しにはみ出た、動物めいた、しかし同時に実に近代の物欲めいた人間の正体が出現しているとすら僕は本気で思う。だからスライスするのである。加えてフックするのである。最後にシャンクするのである。ぐいん。
で、で。本来スポーツというのは僕がゴルフに抱く劣等感と嫉妬を足して2で割り込んだような不健全な気持ちでやるものではなく、むしろこのようなストレスを発散するために行う健全的な行為のはずである。僕は健全になりたい。なろっと。いっそカーリングでもしたろかしらん。などと根拠も思想もなく場当たりに思いついて、自宅の眼前にあるカーリング競技場へよちよち歩いて行ったのだけれども、そこはやはり団体競技。団体を肯定する人々の雰囲気が僕を打ちのめすほど漂っており、当然その中に溶け込めそうにない心境を瞬時に抱いた僕は足がすくんで一歩も動けなくなった。そして、一歩も動かぬまま日が暮れ、カーリング競技場の電灯が消え失せ、残ったのは背後のネオン。僕は漠然と踵を返して、綿埃のようにふわぁ、とネオンの中へと歩き出し、潜った居酒屋の暖簾の先で焼鳥とおでんと芋焼酎を交互におかわりしながら、ヤンキー出身のような容姿の若い店主に「いやぁ、君もゴルフ始めればいいのにぃ」などとほざいたのだから呆れた屁が匂い立つ。かしこ。
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詩 その44
http://hasumaro.exblog.jp/22037798/
2014-05-14T08:38:00+09:00
2014-05-14T08:41:02+09:00
2014-05-14T08:38:59+09:00
hasumaro
詩
これからどこへ
両目に悲しみを流してこれからどこへ行こうか
両目に淋しさを流してこれからどこへ行こうか
両目に思い出を流してこれからどこへ行こうか
両目に今を流してこれからどこへ行こうか
どこへ辿り着くのか
この果てには幸せが待っていると聞いたけれど
信じる時間などない
ただ、どこへ行こうか
大人になんかなりたくはない
子供のままではいたくはない
越えたい
通り過ぎたい
両目の中に流してしまいたい
そしてこのまま行こうか
両目に言葉が流れてゆく
両目に音が流れてゆく
両目の中に歪んでゆく
両目の中に沈んでゆく
溢れてゆく
手を握り返したい
温もりの中に永久のお前を閉じ込めたい
一瞬の快楽に打ち消された
最初の安らぎを永久にしたい
飯を啜る音
スープをなめる音
その中に全部が落ちてゆく
両目の中にそれが流れてゆく
そしてこのまま行こうか
両目の中に人はいらない
両目の中に傘はいらない
両目の中に雨は降らない
ただ流してゆくだけ
わたしを見つめたまま
わたしを見失い
わたしを見つける
流れてゆく
(2013年 呆気)
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春のお知らせ
http://hasumaro.exblog.jp/21660383/
2014-03-28T18:22:53+09:00
2014-03-28T18:23:04+09:00
2014-03-28T18:23:04+09:00
hasumaro
エッセイ
のっそりとふてぶてしく昨年暮れから居座り続けやがっている雪の野郎もとうとう融けかけやがり、雪の下敷きになった前回の秋が残した紙くずやら不燃ごみやらが古びた姿で顔を出している。そんなぐしゃぐしゃの歩道を僕の長い足が踏み潰してゆく。春の訪れを踏み潰してゆく。洟が垂れている。
これまで腐るほど春を迎えた僕という男は、近年になってとうとう春という存在そのものに飽きている。別れと出会いの季節を謳われる春であるが、近年出会いが減ったせいでおのずと別れも減っている。なんら変哲もない。いつもの連中がいつもの調子で腹をすかせて飯をおかわりしている。春夏秋冬それを繰り返している。春夏秋冬肥満している。はんぺんを食っている。ぽんぽちを食っている。
変化が欲しい。野球の投手もストレートだけでは打者を打ち取れない、ということは小学生でも知っている。つまり変化球。カーヴだのシュートだのスプリット・フィンガード・ファスト・ボールだの、そうした球種、変化が僕の生活にも欲しいものだ。例えば僕は視力が低い挙句鳥目のため昼夜問わず車の運転というのが不得手であり、従ってドライブという趣味を持たないが、視力回復手術を受けた挙句、新車を購入、そしたらドライブしたくなるのではないのかしらん、と思わないでもないのだけれどもこの場合大金がかかるのであり、収入もたかが知れた現在、ドライブのために数百万をかけるほど経済が僕を味方しないのであり、たかが春に飽きた男の気まぐれと場当たりな思いつきのために大金をかけるなんざこれ、阿呆や馬鹿を素通りした糞野郎、えんこ野郎である。
そもそも趣味というのはそうして大金をかけて無理矢理こしらえるものではない。なんつうか、自然と、ふと、好きなあまり熱中しているうちに生活の一部になっちゃった、みたいな、山に見とれているうちに登った挙句山小屋に住み着いちゃった、みたいな、おかわりしているうちにわんこ蕎麦屋を始めちゃった、みたいな、つまり「好き」という気持ちがあって初めて趣味となるわけで、そうしていつの間にか生活に密着した存在になるのである。僕の好きなもの、それがあるかが重要なのである。安いリアカーを買ったって運ぶものがない。空気を運んでも楽しくない。楽しくなければ趣味に至らない。ひたすら空のリアカーを引きずっても何の喜びも得られないではないか。時間の無駄ではないか。こうして月日が経ち、とうとう春にさえ飽きたではないか。変化。好き。変化。好き。ヘン・カスキー様。
だからといったって急に何かを好きになれるわけではない。しかも好きなことが偶然大金がかかることであった場合、いくら好きでも実施できぬのだ。ヨージ・ヤマモトが好きでも高すぎて買えぬためにやけくそで買ったラルズのドテラを着込んでもなんら楽しくない。むしろどんどん格好が悪くなって仕舞いに自分自身を嫌いになってしまうかもしらん。自分という存在を嫌いである場合、きっと何をしても楽しくなく、何にも好きになどなれんもの。ていうことはまず自分を好きにならんと何も始まらない、ということにすぐに気づいた僕はまず蓮麿を好きになろうと思った。しかし、そもそも僕は僕を嫌いなのだろうか。それを確認するためにまず蓮麿の嫌なところ、阿呆なところ、どんくさいところ、などを挙げてみることにする。
1・餓鬼の頃、たまに小便を漏らした。
2・同時にえんこを漏らしたこともある。
3・ヤンキーになった時、実は童貞だった。
4・童貞をきった時、すごく調子づいた。
5・他人にとても嫌なことをする癖がある。
6・婦女子よりも寒がり。
7・エロ本よりもビニ本が好きだった。
8・同時にAV男優を志した時期がある。
9・まだ乳歯がある。
10・頭が尖っている。
11・魚の目がある。
12・ゆでたまごが食えない。
13・おできが痒い。
14・数字を見ると自律神経が病む。
15・昨夜の屁はいつもより臭かった。
16項目を書こうとしたが気分が悪くなってきた。これ以上書き綴ると自分という存在が本心から嫌いになりそうになってきたからである。12項目あたりで自分の良いところというのがそもそもあるのだろうか、という不安にかられ、14項目でそれが確信に変わりそうにさえなった。1項から15項をひとくくりにして蓮麿を評価した場合、実にくだらない男のように思えて仕方がない。こんな奴を好きになる人など神さえ知らぬと言うだろう。否しかし、僕には妻がいるわけで、そう考えると妻という存在は実に神々しくすら思ふ。こんな僕を、こんなくだらない蓮麿を好んでくれてありがとう、愛してくれてありがとう、と心の底から胃袋の底から心臓の隅々から思ふのである。
だけどどうだろ。どうでしょ。自分をくだらなく思い落ち込んだ挙句泣きながら妻に感謝すらするほど精神にストレスを加えてまで趣味というのを得なければならないのか。そもそも趣味という存在は実は苦痛を生むものなのではないか。これならば僕は、逆から言うと趣味を得た場合なんのメリットもなく、むしろ廃人になるではなかろうか。これこそ無意味だ。ということに僕は気付いたのだけれども、気付いてみたらみたで改めて自分という存在が嫌になった。僕は何をしているのだろう。何をしているのかしらん? こんなくだらない15項目を考えている暇があれば湯を沸かして蕎麦でも茹でれば良かった。そして茹で終えた湯を湯飲みに注ぎ蕎麦湯を飲めば良かった。そうしたら胃も満たされ肉体も温まりきっと風邪もひかない健康な一日を過ごせたのだろう。15項目の戯言よりも一杯の蕎麦である。人間というのは暇に飽きるとくだらぬことを思い描き、非生産的な妄想にかられ、最後は自分を嫌いになるのである。その反面的手本として諸君らに蓮麿という男の人生の一部をお知らせ致しますのでご査収の程よろしくお願い申し上げます。かしこ。
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ぼくの真ん中に冬
http://hasumaro.exblog.jp/21447651/
2014-02-19T08:44:18+09:00
2014-02-19T08:43:54+09:00
2014-02-19T08:43:54+09:00
hasumaro
エッセイ
北海道札幌市で生れ落ちたせいで、僕という人間の人格そのものに冬の卑屈さが反映され、僕自身けっこう卑屈な男である。なんというか、すごく褒められたいのに実際褒められてしまうと褒められたことを信じない信じたくない、そんな思考が一瞬で働く。そもそも褒められることを実施しようと心がけていないことも手伝って、不意に褒められてうっかり喜んだら陰で馬鹿にされるのではないかしらん、と思ってしまう。最初から僕を褒める人などいない、そんな行いしてないもの、と思っているのでいざ褒められるとこの人は褒めることで僕を騙して僕に不利益を及ぼした挙句名誉を毀損しようと企んでいるのではないのかしらん、と疑ってしまう。実に甚だしいくらいの卑屈野郎であり、ここまで卑屈が育ったらもはや婦女子にももてない。同性にだって人気が出ない。つまり人間社会の日陰者であり、だけど日陰者はいやんなので普段卑屈を表に出さぬよう細心の注意を図っているものの、同時にこんなことに細心の注意を図らざるを得ないあたりが正しく卑屈である、とも思え、ますます卑屈地獄にはまり込んで全身が地底にめり込んだ思いである。めりっ。
冬季オリンピックというのが旧ソビエト連邦・現ロシア共和国ソチ市にて催されているのだけれども、冬季オリンピックというのは冬季のスポーツであり、冬季のスポーツというのは雪上で行われるわけであって、つまりものすごく寒い中でスポーツをしている人たちの祭典である。
この寒い中、卑屈にならずスポーツをするなんて実に立派ではないか。その時点でメダルの色など関係なく皆偉いと思ふ。僕の人生経験から一方的に言わせてもらうと、普通冬にスポーツなどやらない。寒いと体が動かないし、思考だって鈍る。そんな肉体的・精神的条件下でスキーやスノーボードやスケートに勤しむなど僕の人生経験上ありえない事態である。だからこうして僕という男はスポーツはおろか外出することさえせず、自室に篭り政治経済番組などを見てコメンテーターやタレントの悪口を呟いたりしているのだ。一人で。たった一人で。まるで情けないと思わないか。僕は思う。だから反省してせめて外出しようと思うのだけれども外は連日吹雪。僕のような冬季素人がこんな吹雪の中外出したら遭難した挙句たぶん死ぬ。死んだら妻が悲しみたぶん友も悲しむ。悲しませたくない思いから僕は外出を諦めて、こうして忸怩たる思いでデーブスペクターの悪口を呟く羽目となっているのだ。なんだかますます卑屈が成長した感じがするのである。まいった。
外は寒いし死ぬかもしらんし、だからといって家も飽きる。飽きるけれども寒いから家に篭るしかなく、おかげで死ぬほど家に飽きている。つまり後も先もない。後がなくて先がないということは後と先の真ん中にいる、ということになるのだけれども、この場合の真ん中というのは右翼左翼ではない中道、リベラル、だのの意味とはまったく違って、ひたすらどん詰まり、行き詰まりを意味する。「僕は真ん中です」と言って「へぇ、偏っていなくていいですね。一方に偏らず客観的思考で物事を判断し批判をする。その精神こそが民主主義を発展させ、言論の自由を守るんですよ」などという人がいたとしたらその人は真ん中であることの苦しみを知らぬぼんぼん野郎である。金にも飯にも困ったことのない、便所にも便器にも困ったことのない立ちしょん野郎である。いいですか。このまま真ん中にいたら生きているのか死んでいるのかもわからない、ひたすら卑屈空間でぶくぶく肉を卑屈に変えた卑屈でぶになるのですよ。僕は今、危機を感ずる。危険を感じている。このままでは危機と危険の真ん中のあはん野郎である。
そう。外である。外出である。やはりこれしかない。人間、生きていたら一度くらいは命を懸けるくらいの覚悟が必要ではないか。僕はそう思う。なにも全裸で吹雪の中をスキップするわけではない、ただ何というか気晴らしみたいな感じで、軽く、ラフな感じで、ポジティブな気持ちで、ぷらん、と外へ出てみりゃいいのですよ、ほんと。で、ぷらん、って感じで玄関のドアーを開けた途端、氷の塊を無理やり気体に変換したくらいの凍てつく空気が僕の灯油ストーブに慣れきった、怠けきった肉体にずぶっと突き刺さる。痛い。痛い。やめて。と叫びながらも僕は必死に、決死の覚悟で、武士のような顔でエレベータへ向かって走り出した。下降ボタンを人差し指でプッシュし、開いた扉の向こう側へ肉体を押し込むように乗り込んで一階ボタンをプッシュプッシュプッシュ。ちん。と鳴って到着した一階。開いた扉の向こうに玄関ホール。玄関ホールの向こうにガラス戸。ガラス戸の向こうに冬季。なまら寒そうな雪。冬のかたまり。マンションと外界の真ん中でしばし呆然と立ち尽くす僕。立ち尽くしているうちに不意に心の中がメルヘンになった。つまり、外に出れば本当の自分が見つかる、すなわち今まで家に篭っていた自分は本当の蓮麿ではなくて、本当の蓮麿は外にいるのではないか、と思ったのである。そんなメルヘンを信じていざガラス戸を開き、とうとう僕は外へ出た。吹雪。雪の嵐。突風と疾風の真ん中に冬季の世界が完成している。どこに蓮麿はいるのか。本当の自分がいるのだろうか。そんなものいるはずがない、ということを一瞬で悟った僕。ぶるぶる震えながら「でもせっかくだから」などと独り言を言って真冬の歩道を二三歩進んでみたものの容赦のない寒さに心が折損し、直ちにきびすを返してから「おおう、寒いねぇ」と、ねぇ、の部分をわざと少し声をひっくり返して呟き、その時の顔は見なくともわかるほど顔面の筋肉が卑屈に歪んでいたのだけれどもあえて無視し、そのまま、そのまま、ガラス戸を押して玄関ホールに入り、ぶるぶる震えながら真ん中を、ひたすら真ん中を、ど真ん中だけをよちよち歩いて、そしてエレベータの到着を待ったのである。そしてなかなか来ないエレベータを待ちながら、微塵に残る心の中のメルヘンを打ち消すためにわざとしつこく呟いたのである。「日本、がんばれ」と。ちん。かしこ。
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