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VANISHING POINT
f0070077_11343117.jpgまだブリーフにえんこを付着させてママンに叱られていた年頃。生家には風呂というものが存在しなく、尻を洗うためには銭湯という大衆浴場に行かねばならなかった。そうして大衆の中で尻を洗っていると不意に視線の中心に般若や菩薩が飛び込んできて、顔面をそちらに向けてみると隣には肉体に彫り込まれた色鮮やかな刺青があった。ヤクザのおっさんが僕の隣で尻を洗っているのである。幾戦もの修羅場を潜ったであろう陰茎はいびつな形をしており、それは真珠を埋め込んでいることによる変形であったことを後に知ったのであるが、あの頃はまだ、刺青と真珠がセットだったのである。これが当時のアウトローのスタイルであった。
ブランキーの3人は真珠を入れていないと思うが、しかしたっぷり刺青が彫られている。あえて言うと刺青を彫っているくせに真珠をいれていない。こんなのはアウトローじゃない。不良じゃない。否、これが新しい不良のスタイルなのである。僕の知る限り、ブランキーの登場後、巷に刺青が増えた。タトゥーという新たな語句もできた。もう真珠はどこにも無い。今では僕も大人なのでえんこもつかなくなったし、自宅に風呂もあるので銭湯で真珠を確認することもできない。ひとつの時代の終焉を僕は目撃したことになる。ちょっと淋しい感じ。
肉体に刺青を入れているせいか、ブランキーの音楽はより肉体を駆使しているように見える。器用な指先でちゃっちゃっと楽器を鳴らすというよりは全身でがつっがつっと叩きつけるような感じ。当時はバブル経済の終わり頃で、多くの国民が食傷気味であった。そんな色んなものに飽きた平和で贅沢な時代に、肉体というとてもシンプルな武器を使って、例えば猫が死んだ悲しい気持ち、などの些細な少年の感情を叫ぶブランキーの音楽がすごく新鮮に感じたのである。満腹のうえにおかわりを繰り返していたような時代のど真ん中に、不良少年の「飢え」を叩きつけたのである。今では腹も丸くなり、明日の晩飯のことばかり考えているとんだブランキーぽっちゃりシティの僕であるが、その昔は将来というものにすごく不安を感じ、焦りと怒りに満ち溢れていた少年だった。真珠に憧れたヤンキー少年だった。そんな青臭くて、しかし何よりも真剣だったかつての自分の「飢え」を彼らの音楽や映像を見るたび思い出すのである。などと言いつつ、僕は今晩海老のマヨネーズ炒めを肴に麦焼酎を呑みたい。たぶんおかわりするだろう。こっそり屁もこくだろう。飢えはすぐに失ってしまうが、欲は毎日生まれてくる。生まれ変わるということは飢えを取り戻すということなのか。真珠もめり込む肉の底。大人は経済のためにおかわりをする。肥えた優良中年のうたはもう若者の心には響かない。
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by hasumaro | 2013-04-26 11:35 | repo
告白
f0070077_10401656.jpg私どもの世代では言わずと知れたパンク歌手・町田町蔵。昔ドールというパンク雑誌があって、そこに墓場で菊の花を持った姿で映る町蔵の写真が掲載されていた。その写真が死ぬほど格好良かったのを記憶しているが、当時はボウイというバンドが流行していて、僕もちゃっかり聴いたが、当時の僕はヤンキー少年だったことが災いしてすごく過激な感じが好きであったため、婦女子が言うところの格好良さという意味では格好いいと思ったけれども、過激さではやはりザ・スターリンやザ・スタークラブ、アナーキー、そして町田町蔵であった。
そもそも死にたくないのに「死ぬほど」と表現すること自体が過激だと思う。人間が「死ぬ」ということは人間でなくなるのだから、人間であるうちに「死ぬ」というのは「生きる」ことより過激なのである。ヤンキー少年だった僕はヤンキーになるためにブリーフを脱ぎ捨てスポーツ刈りをやめて剃り込みを入れた。過激さを求め始めた思春期のスタートである。童貞をやめるのは少し先だけれど。そうして狭い世間に最もハンドメイドなやり方で自己を表現することがヤンキーのやり方であり、美容室とかに行って綺麗に整えられた、他者の手によって作られたものよりリアリティがあった。他者の手が加えられるとそれは社会そのものである。僕らは社会が敵であったためにわざわざ自分らの手でヤンキーというのを拵えたわけである。社会はうんこするくせに「えんこしません」と言っているアイドルのようなものであり、僕らはそんなアイドルの眼前であえてえんこを搾り出してやりたかったのである。迷惑なガキであるが、臭い物をスコッティで隠す社会に僕らなりのえんこを見せ付けたかった、これがリアリティであり、僕らの反逆・反抗であった。すなわちボウイは社会人・大人の音楽だった。僕らはガキだったので未完成で不安定な己をさらけ出すパンクが調度良かったのである。「お前だけを愛してたー」などと言われても大層な失恋など経験していない。「俺の存在を頭から打ち消してくれっ」と叫ぶ町蔵に自己を陶酔させて興奮したのである。
人はなぜ人を殺すのか。人間の根源的なテーマである。過激だと思う。人が人を殺す理由、それは実はたくさんある。昨今問題になっているいじめやパワハラ。ガキのうちは「いじめ」だが大人になると「パワハラ」になる。根本は一緒である。やられた奴がやった奴を殺す時代に突入したのだろうか。この世にはあらゆる人間の恨みが蠢いている。見るも無残な殺しの条件を人の手で作っているのが今の世である。人は人格を否定されると怒る。しかし否定する側はまさか殺されるとまでは思っておらず、だから殺されるまでやる。殺されなければ気づかないのか?人間というのはいくつになっても愚かであるが、人を殺す理由はこればかりではない。例えば嘘に嘘を重ねて生きている人。ひとつの嘘にはふたつの嘘が必要になる。ひとつめの嘘がばれぬようふたつめの嘘を用意するわけであるが、それが結果百を数え、仕舞いに二百になる。もうどれが嘘なのかわからなくなるほど嘘だらけの人生である。そうして最後に嘘がばれ、「うそつき」と批判をされ、何が本当で何が嘘か判別に苦しむほどの大量の嘘を前に、世間は「お前の人生ぜんぶ嘘じゃん」ということになる。すなわち人生を、人格を否定される。うそつきは逆上するだろう。殺しにくるかもしらん。人は人の手により殺しを作る。たとえ自業自得であろうとも恨みはとまらない。人間をなめたら人間にやられる。俺の存在を頭から打ち消して、お前をやりにくるかもしらん。あんけらそ。
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by hasumaro | 2013-04-04 10:41 | repo
アウトレイジ
f0070077_16491833.jpgやる奴とやられる奴、そして次にやられる奴しか出てこない映画。全員悪党とはよく言ったものである。
仁義もなけりゃ情けなど当然無い。仁義を重んじ、情けをかけりゃ裏切られるかもしらん。裏切りは死を意味する。裏切られた者は死に、裏切った奴は報復される。どっちにしろ死ぬ。いやん。そもそも長生きしたい奴がヤクザになどならん。どうせ短い人生なら派手に生きてやるってもんで、命がけで成り上がって行くのである。失敗したら死。成功してもいずれ死ぬ。束の間の栄光のために一瞬の命を燃やし尽くすのだ。
昔、仁義なき戦いなんつう映画をガキの分際で見に行き、映画館から出てくる時はすっかりヤクザになりきり肩で風を切って練り歩き、色気づいたものである。「おれは成り上がってやるぜ」なんつってジャージのズボンを膨らませて歩き、つるんとした陰茎をこっそりいじっていた阿呆なガキであった。男というのはなぜか太く短く生きる者に憧れを抱く。ヤクザ映画しかり、シドヴィシャスなんかもそうか。僕も最初は二十歳で死んでやる、と意気込んでいたが、途中からこっそり三十歳に延長していた。挙句今では厚生労働省の年金問題について文句を言っている。パンクが今じゃ老後の心配である。とほほ。
北野武という人は独特の死生観を持っていると思う。何か皮肉めいたものを感じるのである。死は呆気ないほど残忍に映る。死に行く者の心の描写を一切排除して、ただただ呆気なく死が繰り返される。悲しむ暇もないほど死んだ者への余韻の欠片も残さない。生き残った者がむしろ滑稽に見えるほどである。死へのアイロニーを感じるのである。
ヤクザにならなかった大人たちがいくら粋がっても真実味がない。もし職場とかに権力を乱用するマッチョな上司などがいる場合、所詮こいつは長生きするんだから怖くない、くらいに思ってよろしいのではないか。死を覚悟した奴ほど恐ろしいものはないのだから。映画の中の悪党は残忍で残酷で無残で呆気なくて、そしてかっこいい。でもこんなもん現実では絶対に関わりたくない。いくらかっこ良くても死にたくないってのが現実である。悪党になりきれない我々にとって、スクリーンの中で死んでゆく悪党たちに実は、現実を生き抜くための逆説的な勇気をもらっているのではないか、なんて思ったり。
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by hasumaro | 2010-07-29 16:53 | repo
人間失格
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面白くも無いのに笑わなくちゃいけないのか。他人のジョークというものが僕にとって苦痛であった。しかしここであははっとやらないと「君はどうして笑わないんだ?」などと奴らは僕の心の中に土足で上がり込もうとする。挙句の果てには「何か悩み事があるのかい?」なんつってまるで心配されたような有様。くだらない。つまらない。こんなことなら笑ったほうが楽か。僕は笑うことを覚えた。そして時折笑わない奴を目撃するとこっそりそいつを笑わせる為に「面白くないよな?」と言ってみる。するとそいつは笑うのだ。僕はようやくジョークを手に入れた気がした。
大庭葉蔵は笑って苦しんだ。笑えば笑うほど自分のことが嫌いになった。だからもっと自分自身を痛みつけたくなる。血だらけになりながらくだらなくてつまらない世間に全裸で飛び込むのだ。そして「面白くないよな?」と問いかける。僕は笑った。同時に悲しかった。笑顔と泣き顔は似ているのである。
大庭葉蔵が傷だらけになるたび、血だらけになるたび僕は笑うことの勇気をもらった。生きにくいと思いながら生き延びる為に手にする麻薬のような力を得た。それを試すときっと自分は廃人になる。いや、廃人になってしまいたいがそれができない。その勇気がない。だから笑ってごまかすのである。自分をごまかすのである。ごまかすことにも勇気がいた。なぜならきっと自分をごまかすということは自分を諦めることであるからだ。僕は何を諦めたというのか。たぶん、あいつらと一緒に本気で笑うことを諦めたのかもしれない、ともいえる。僕にとって笑うことは奴らへの拒絶、そして世間への抵抗だった。静かな反逆であった。
大庭葉蔵は心の中だけに現れる。それは絶対に誰にもばれたくない、悟られたくない自分自身の葛藤そのものであった。ヒーローは僕の羞恥心の塊りであった。
2010年、大庭葉蔵がとうとうこの世に現れた。映画の中で人の姿になった。僕にとってそれだけで十分である。
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by hasumaro | 2010-06-16 14:05 | repo
武士の一分
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この時代、武士というのはいつ何時命を落とすかわからない時代であった。
武士として与えられた仕事をこなす際には、命を賭けねばならなかったからである。
だから細心の注意を計り、失敗せぬよう用心しなくてはならんかった。
武士という名の名誉の代償はこれ、即ち「命」だったのである。
今の時代、命を賭けることなんてないじゃないか。そら気持ちの上では「命賭けたる」なんつって特に婦女子の前などで鼻の穴を膨張させたりするが、この程度の命など僕に限ってはすでに数え切れんくらい賭けており、しかし一向に死なず、この世で尻をかいていたりするのだから器が知れる。ぷす。
武士っちゅうのは今の時代に照らし合わせると、高級官僚ってところだろうか。確かに国の仕事をするってところは共通していて、官僚らもそれ相応のプレッシャーもあるだろう。しかしこれ、武士と決定的に違うのは命を賭けているところであって、例えば昨今話題の年金問題なんつうのがあるが、こんなもの武士の時代であったなら、社会保険庁の役人どもは皆「切腹」である。しかし切腹しなくていいもんだからあのようなふざけ切った詐欺のようなことをしやがるのである。
同時に昔は「敵討ち」という言葉があり、それを実行する者らが存在した。例えば自分の愛する者が老人になって年金が支払われず、屈辱の晩年を過ごすことになった場合、かつての時代の侍ならば敵討ちを実行し、愛する人の屈辱を命を賭けて晴らしたに違いない。命を賭けて敵を討つということは、その屈辱を加えた相手の命を奪う、ということである。しかし現在、敵討ちの場は法廷へと移され、面倒臭くてややこしく、その上時間ばかりを無駄に使うようななまけた裁判をやって、そんで堂々と嘘をのたまう被告人の話を、いい年こいた大人どもが弁護士やら検事やらと名乗って、そんで臭い屁を垂れあうものだから犯罪者が図に乗って一丁前に権利を主張し、図々しくも減刑を企んだりするのである。困った時代である。

武士の時代とは静かな時代であった。なぜなら命を賭ける以上、言い訳は許されないからである。言い訳がない分、喋る回数も現代よりは少なかったはずであり、喋る回数が少ない分、人々は相手の心の中を想像する時間が多かったと思うのである。
相手のことを想像するだけで自らの気持ちが落ち着いたり、又は激しく揺れ動いたり、言葉を交わす時間が短い分、相手を思う気持ちが強かったように思うのである。いわゆる思いやりというのはこういうものである。
命を賭けて生きる男を思い、いつ死ぬかわからない男と人生を共にする女を思う。かつてこの国に存在した儚くも切なく、そして激しい愛の姿である。
真剣に人を愛した時代の姿である。
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by hasumaro | 2007-06-28 16:04 | repo
手紙
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犯罪というものは被害者はもちろん、その遺族、友人、知人、恋人、すべてが巻き込まれてゆくものであり、同時に犯罪者にも同じことが言えて、その肉親、兄弟、友人、知人、恋人、すべてがその犯罪によって十字架を背負わされるのである。これらすべてを含めて「罪」なのだと思うのである。
頭の中では判っていたはずであるけれども、この映画は被害者側はもちろん、犯罪者側の兄弟や友人、恋人達が背負う十字架の重さというのを深く描いており、改めて「罪」というものを考えさせられたのである。
クライマックスのシーンで、兄が両手を合わせ涙を流す姿が実に印象に残った。
あれはきっと「罪」のすべてに手を合わせたのだろうと思う。

原作者の東野圭吾という作家は「白夜行」や「秘密」等で知っていたが、僕はどちらかというとストーリーそのものよりも文体に特徴のある作家が好みであるためそれほど印象に残った作家ではなかったのだけれども、ちょいとじっくり読んでみたろかしらん?と企んでいる。
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by hasumaro | 2007-05-08 15:03 | repo
尾崎放哉全集
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例えば「孤独」というものを言葉で表現したろと企んだとする。そんで、「いやぁ、僕はとっても淋しくて、というのは一人だから。なして一人になったのかちゅうと恋人にふられたから」などと書きなぐってみたとする。しかしこれを読んで感動する者は皆無である。なぜならここに「孤独」というものは一切表現されていないからである。ただ自分の現状を書き綴った日記に他ならないのである。日記ちゅうのはそもそも他人に発表するもんではない。すなわち他人に発表したろと思った時点で、それは日記ではなく表現ちゅうものが加わるはずである。「俺が淋しいのは女にふられたからだ」なんつってもこれは「孤独」というものを言葉で表現したことにはならない。日本の詩人で「孤独」というものを最上級の形で表現したと言えば尾崎放哉であると僕は思うのである。ここで現在、孤独に喘いでいる諸君らに放哉の詩を送ろう。

咳をしても一人

僕は昔、ホラ吹きだった。一度吹いたホラがばれぬために二度目のホラを吹いていた。「ティーパックの烏龍茶で茶柱が立ったよ」などという程度のホラなら可愛げがあるが、場合によっては可愛げの欠片もない、非常に不細工なホラを吹いていたこともあったのである。この場合のホラは嘘ともいう。ここで当時、僕がホラがばれそうになって焦った時に創作した詩を諸君らに送ろう。

胃が病んで一人
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by hasumaro | 2007-04-20 14:47 | repo
間宮兄弟
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子供の頃から大の仲良し兄弟が、そのまま浮世の垢に塗れずにすくすく育った、っちゅ印象を抱く人が多いかもしらん。事実僕も観るまではそう思っていたのである。
確かにいい年こいた大人の男ふたりが、しかも兄弟が、同じ部屋を借りて毎夜テレビの前でポップコーンを頬張りながらプロ野球観戦したり、一目ぼれした婦女子と仲良くなりたいもんだから兄弟そろっておろおろしながら部屋に招待したり、こんなものはこら、いい年こいて兄弟そろってやることじゃねぇぞこら、と思いつつも実際、僕もいい年こいて、例えば古くからの友人と大の大人の男がふたり揃って酔っ払いながら、およそ8割ほどフィクションを混ぜたエロ話などをしたり、昔話を懐かしみすぎて昔のような言動、もしくは行動を起こしてしまったりしているのであるから器が知れる。
これはひょっとすると、間宮の二人みたいに兄弟だからこそ微笑ましくも見えるのであり、同時に珍しいくらい仲のいい兄弟として肯定的な評価を得られるのかもしらんがしかし、僕の場合で言うと「ああいう大人には成りたくないな」などと、汚れを知らんつるんとした少年少女などに否定的に受け取られかねないような気がするので気をつけたいものである。
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by hasumaro | 2007-04-17 16:48 | repo
コヨーテアグリー
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「おう、軽く一杯引っ掛けにいかねぇ?」「うん、いいわね」「おう、あすこのバーでプロシュートでも摘みながらマティーニでもどうだい?」「うん、素敵」「いやいや、お前の方が素敵だぜ」「いやん、あなたの方が素敵よ」「ぬふ」「うふ」
などと図に乗ってお洒落なナイトレジャー気分で出向くと酷い目にあうであろうお店がこの映画の舞台である。
コヨーテアグリーちゅう名のお店はバーでもなけりゃクラブでもない。従業員の婦女子がそれぞれの役を演じ切り、客どもはこれらに熱狂する。そう、まるでライブハウスのようであり、しかしライブハウスではない。別段バンドの演奏があるわけでもないのであって、ただひたすらコヨーテアグリーのメンバーらが客に酒を呑ますために、バーやクラブで行われるサービスとは別次元のサービスを振舞うのである。そうして客どもは熱狂しながら酒を呑み、さらなるサービスを求めるのである。
客とバーテン。本来はこれだけの関係のはずが、まるでライブハウスのように成り果てるのだからすごい。音のグルーヴではなく酒のグルーヴ。ちんけにちびちび飲んでたら引っ叩かれそうだ。お酒の呑めない人は行かない方がいい。
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by hasumaro | 2007-04-06 13:03 | repo
夫婦善哉
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戦前戦中戦後を生きた織田作之助の作品である。
体たらくな亭主と働き者の妻の話で、戦後直後の闇市やら、混沌とした大阪の街が舞台である。
元来やる気のない亭主は立場がまずくなるとやる気が出た素振りをして、どうにかその場を凌ぎ、妻は初めはそんな亭主のやる気を信じて脇から支えたり手伝ったりするのだが、徐々に亭主の魂胆に悟り、最後にはまるであてにしなくなる。
と、あらすじめいたことを書くとつまらないのでここら辺りでよしとこ。
僕はこの作品を今から十五年前に読んだのだけども、偶然にも主人公と同じ、無職であった。そして同じ境遇ゆえに無性に共感してしまったのだ。共感には余韻が伴うものだ。そして余韻に浸っているうちに社会に進出するのが出遅れてしまったのである。こういう男を昨今ではニートという。実にいやな時代になった。
織田作之助は戦後直後、若くして死んだ。そして現在、僕は織田作之助の年齢を越えてしまった。色んな意味で今、夫婦善哉を読み直している。これまでにも幾度となく読み直したはずなのに。例えばこれまでに数度、僕は無職になっている。今思えば無職になるたびこれを読み直しているような気がする。自分がこの主人公みたいになりたくない、という思いから、アンチテーゼとして読み直すのか、あるいは、本当に自分とこの主人公が、共感以上に感性の部分が似ていて、自分を代弁しているような気持ちで読み直しているのか、それはよくわからないが、きっとどちらかの理由に近い気がする。どちらも本心だと思うのだ。
「花は桜木、男は織田作!今が死に花や!」というのが織田作之助の最後の言葉だったらしい。それを聞いたのは看病していた10歳近く離れた恋人だったという。10代の頃、「俺も真似したろ」と企んでいたが、いつの間にか自分は織田作之助より年上になっている。もう真似は出来ないのである。
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by hasumaro | 2007-04-04 15:17 | repo



爆発する愛と欲の言葉達
by hasumaro
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