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大人のロック
夢と現実。腹痛と尻の穴ではない。夢と現実、である。夢と現実には落差がある。この落差のせいで人間は狂人になったり廃人になったりする。僕は働いている。仕事をしている。この落差を埋めるため、補うために働いているといっても過言ではないのである。
というのは、僕が魂の赴くままに夢中になって没頭してきたものがことごとく仕事には繋がらなかったからである。自分の稼業にはできなかったからである。夢が仕事と結びつかなかったのである。だから現在、その、かつての魂が赴いた方角からてんで無関係な方角の仕事をやっているのである。これは夢と現実の落差を埋め、人生を保つための最低限の方法である。
僕は個人的に、年齢というものが夢、または目標の妨げになったことがない。よく、若作りした中年が「僕もそろそろ落ち着くよ」などと言って翌日から太る姿を目撃するのだけれども、僕は特に感想を抱かなかった。何とも思わなかったのである。具体的に言うと、友人知人の多くは結婚をした。それを見て焦る人もいた。しかし僕は焦らなかった。なぜなら、没頭し、集中していたからである。
そしてその没頭、集中を終え、魂の抜けた姿で近所の居酒屋などに立ち寄ると、辺りの連中は「蓮麿はまだ結婚せんのか?」と質問してくるようになった。そのころになってようやく自分が世帯を構えても不思議ではない、ヨージ・ヤマモトのスーツを着ても似合う年頃なんだな、ということに気付き、そして同時にこれまで魂に導かれて集中してきたものが現実には結びつかなかった、職業にはならなかった、ということを自覚し、そうして忸怩たる思いを抱きながら就職を探し、同時に「結婚しないの?って訊ねるのであれば、俺の結婚相手を同時に紹介してこそその質問したことによる責務を真っ当できるんだぞ、馬鹿野朗」というような、優越感を抱く者によくある、優越と嫉妬の入り交ざった複雑な心理を少しむかつきながら悟り、口には出さず心で反論したのである。
夢を叶えたい、だの、夢を追いたい、だのとよく人は言う。しかし僕には昔から疑問があった。例えばロックミュージシャンになりたい、と思う。デビューしたい、でかい場所でコンサートを開催したい、婦女子にキャーキャー言われたい、そしてセックスをしたい、と思う。しかしこれは明らかな下心である。ここには魂はないのだ。ロックミュージシャンというのはロックと言う音楽を演奏する者を指す。ということはとっとと楽器を練習すればいいのである。ボーカリストは唄を練習すればいいのである。そしてライブハウスに出演できれば列記としたロックミュージシャンなのである。しかし、デビューしたい、CDが売れたい、セックスがしたい、という下心を予め抱いてしまう者は練習ということをあまりしたがらない者が多い。というのは「デビューしたい」というのは夢という名の自己設定であって、つまり小説家になりたい、と言っても書きたい物語がなければ小説家にはなれぬのであって、デビューしたい、と言っても演奏出来なければデビューできんし、オリジナル曲をやりたい者は、作りたい曲、唄いたい歌詞、というものが存在しなければ何も始まらないはずなのだ。ロックミュージシャンにはコピーバンドをやってもなれるのである。デビューというのは、作りたい音楽があってそれを完成させた上で、その先の話であるのだ。それを飛び越えてまず「デビューしたい」というのは本来下心であり、やらせのようなものであり、そうした具体性のない自己設定というのは個人の音楽性、オリジナリティというものを狭くし、個人の可能性や能力をむしろ失わせていくのである。第一デビューする方法、というのを真剣に考えた場合、まず良い演奏と良い楽曲が必要であるはずが、「まずは現在の音楽シーンの調査をしようぜ」みたいなことを情事のイロハも知らん餓鬼のくせにやるものだから、根本的な部分の、例えばギターの練習などをしても堪え性がなく、壁にぶち当たるたびに「でも演奏下手でも魂があれば伝わる」などと言い逃れをしながら現実から逃亡していくのである。逃げ足が速いのである。
そもそもこのような下心先行のタイプには魂はないのだ。魂というのは、精神や心、という意味であって、その精神や心をどこかへ導く強い思いが存在しなければ自分の魂を見失うのである。つまりギターに興味を抱き、ギターに夢中になる。他の遊びには目も暮れんようになり、日々部屋に篭ってギターばかりを弾いている。新たなコードやフレーズを知るたびに新たな快感に酔いしれる。これが魂というものに関わる人間の姿である。一見、現在で言うところのニートなどに近い状態に見えるかも知らんが、このようなことを経験したことのあるミュージシャンは僕の知るところ結構多い。こいつらは皆上手い。そしてセンスがあった。しかしこれらの者がすべてデビューを果たしたわけではない。今では全く違う世界の仕事をしている者もいる。でも彼らは過去を否定したり、現在ミュージシャンをしている者を優越を演じるために嫉妬を誤魔化したような態度で馬鹿にするような無様な真似はしない。少なくとも僕が見てきた連中にこのような者はいなかった、と言いたいが残念ながらいた。残念ながらいたが、これは無視する。彼らが無様にならなかったのは、過去を財産にできたからである。経験を現在活かしているからである。人生を有意義に生きている証なのである。
夢と現実には落差があるのが当然である。僕は現在、かつての夢が仕事には繋がらなかった、つまり音楽でデビューできなかった。魂というのは自分ではなかなかコントロールできんものである。僕の場合で言うと魂が一度休息している。再び魂が沸騰を起こし、ふつふつとあぶくを作っては破裂を起こすまで待たねばならんのである。つまり没頭できるもの、集中できるものを得るまで待たねばならん時期なのである。休息していると色々なものが冷静に見える。例えば下心のことでいうと、僕のセンスに陰りが見え始めた頃にはすでに魂を忘れ、下心が剥き出ていたような気がする。なぜなら焦っていたからだ。当時、僕はやってもやっても評価されず焦っていたのだ。しかし行動は裏腹で、婦女子と夜毎情事を行っていた。つまり、焦りからくる不安をセックスをすることで緩和させていたのである。困った男である。このようなタイプはアル中患者になりやすい。嫌なことから酒で逃げるのと同じなのである。そうして徐々に考えることに、魂に赴かれることに面倒臭くなり、作曲にも身が入らなくなって素人に批判さえされるようになって、忸怩たる思いで、全裸で尻の穴を塞いで野宿するような気持ちになって、音楽から遠ざかっていったのである。
そんな僕もすっかり大人。多少びびっても落ち着いた振りをしてニュークラなどにいなければならん、びんびんの大人である。そして時には面白いジョークのひとつやふたつをサービスで提供しなければならん完全な大人である。大人というのは前途したように過去を財産に出来た者である。それは過去を否定しない、ということである。過去を否定しない、ということはこれも前途したように、かつての失敗さえも受け入れる、ということである。僕の場合で言えば結局は下心が魂に勝り失敗したのである。だからこそ魂というものがまず先に存在しなければならんと今だからこそ思えるのである。第一、没頭し、集中している間などそんなことには気付かない、他のことには目も暮れないことを没頭、集中、というのであるから当然である。しかし休息してみて初めてこれらを考えることができるのである。これが大人である。びんびんである。むふ。
大人というのは財産がある。経験という財産がある。これを否定するうちは餓鬼である。大人というのは魂に勝った下心、というものさえも自覚しなければならん。そうするとまず、ジョークが面白くなるのだ。自分の矛盾、というものを言い放てると、それは極上のジョークである。これは余裕がなれればできんことだ。大人というのは財産があるゆえ余裕があるはずである。こうした思考というものをユーモアというのである。例えば自分の夢というのを語る場合、これは共通の夢を持つ者や恋人などには感心のある話かも知らんが、それ以外の者にとっては時に苦痛を感ずる場合が多い。特に年齢を問わず精神が餓鬼の者は押し付けがましいのである。自分の夢を他人に押し付ける、というのは、そもそも変態行為に近いのである。嗜虐趣味者が素人を調教するようなものである。性癖に忠実な変態性欲者であれば調教というのは夢であろうけれども、全くそんな趣味のない者にとっては場合によると犯罪である。このような行為は同質の趣味を持つ者や恋人などとやって頂きたいものである。そこで大人というのは自分の失敗談などを織り交ぜながらユーモラスに語り、しかし現在没頭することをみつけた、魂に赴かれている最中の者、平たくいうと夢を具体化させるために集中している者などには激励したりできるような余裕を持っていなければならんのだ。「いやぁ、俺も夢に敗れた時期にはいっそ田舎で豚でも飼って暮らそう、なんて考えたけど、実際田舎に行ったらすすきのねぇし、百姓やれるほどタフじゃねぇって気付いてさ、だからニュークラでホラでも耕すわ、むほー。あ、でも頑張って没頭しろよ。魂は嘘付かないぞ」などと言いながら、しかしこれは自分自身にも言い聞かせていたりするのが大人の姿である。大人というのは夢と現実の落差を知って初めてジョークを知る。ジョークが面白くなる。餓鬼というのは残念ながらジョークが面白くない。なぜなら矛盾を、下心を冷静に自覚できんからである。矛盾した現実にいちいちムキにならず、それさえも財産として吸収してしまうような貪欲さが必要である。
そろそろ新たな魂が沸騰してくるかもしれない。僕は大人になって新たなセンスを得た。これは武器、ともいうべきか。次なる魂が作り出すものはジョークという名の言葉か。ユーモアという名の物語か。そして新たなリズムを生み、新たな旋律が鳴り響くのかもしれない。今度は売れるかもしれん。デビューできるかもしらんぞ。うほ。って、やばい、先に下心が来てしまった。むむむ。作曲でもしようかしらん。あ、仕事頑張ろ。かしこ。
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by hasumaro | 2006-04-27 21:18 | エッセイ
アスパラと猿
短気は損気。よく言ったものである。短気を起こしても何ひとつ得をしない、ということを言っているのだけれども、これ、実際正しいのだからなおさら腹立つのである。
僕は日頃、特に婦女子の前では実に大らかで包容力に満ちた男である。しかしこれは実像とは異なり、事実僕は昔、ホワイトアスパラを買いに行って売ってなくて、売っている店を探したがどこも売っておらず、ホワイトアスパラが大嫌いになったくらい短気な男なのだ。あれから未だホワイトアスパラを食えていないし、第一缶詰になったのは見たことあるが、生のは一度も見たことがない。つまり、僕の生活環境内及び行動範囲内にはホワイトアスパラは存在していない、ということになるのだ。実にむかつく社会である。こんな、ホワイトアスパラごとき、そこら辺りでいつでも買えるような国にしなくては駄目だと思うのだが、不況だか麩菓子だか知らんがそんなののせいで僕はホワイトアスパラを食えない、という実に腹立たしい社会で税金などを納めているのだから、まるで修行僧のような男である。アスパラ坊主である。
こうした口惜しさがトラウマとなって、こんにちも僕はスーパーマーケットなどの野菜売り場の脇を実に忸怩たる思いで横切り、「あっても絶対買ってやらねぇ。頼まれても買わねぇ。それが俺のプライドだ」と言い聞かせている。だから僕のショッピングは非常に疲れるのである。アスパラの奴が僕を白い顔で嘲笑っているのが目に浮かぶのである。その都度腹の腸が煮え繰り返って、放った屁がしょっぱくなるほどなのだ。こんなのでは今に体を壊す。精神に異常をきたす。イライラして、すべてのものがアスパラに見えるようになって、僕はいずれ犯罪に手を染めるかもしらん。そんな不安が心の底にぽちゃん、と雫を垂れ続けるのである。実に疲れる社会である。そしてむかつくアスパラである。
こうした色々な理由で僕はホワイトアスパラが嫌いなのだが、前日、テレビジョンで放映していた田舎臭いニュース番組で「ホワイトアスパラの産地で知られる富良野町」という紹介がなされていた。僕はまた忸怩たる思いでそのニュースを見たのであるが、なにやら話の中身はと言うと、あまりにも美味すぎて、すぐに売れてしまうからなまら貴重です、ということである。馬鹿野朗、そんなことだから俺の手に入らないんじゃねぇか、この堕落百姓、と僕は怒った。そらもう、本気で怒った。なぜなら、そんなに美味いもんならもっと食いたくなるし、しかしなぜそんなにすぐになくなのるだ、実にむかつく。つまり、もっとたくさん作ればいいのである。そしたら僕もこんなにアスパラにむかつかないし、不安に苛まれることもなかった。アスパラを作る作業ってのがなまら大変です、などとニュースでは言い訳しているが、馬鹿野朗、仕事だからしょうがねぇじゃねぇか、働けこの野朗、そんな、なまけたことを言って、尚且つ開き直っていやがるから僕は未だにホワイトアスパラを食えないのだ、実にむかつく。超むかつく。
このように僕が未だにホワイトアスパラを食えぬ理由というのがわかった以上、もう黙ってはおれん。僕は文句を言おうと決意した。それから文句の内容を考え、念のため下書きなどを数回やってから清書をした。自分で言うのもなんだけれども、実に感動的な文句が出来上がったのである。しかし、次の瞬間、僕は地蔵になった。つまり身動き取れなくなった。というのは、どこの誰に文句言えばいいのかわからぬのである。口が尻の穴のようになった僕は、このやり場のない怒りと、このすばらしい文句の中身を披露出来ぬ無念さと、しかし同時に心の奥底にこっそりとある「アスパラごときにムキになるなよ、冷静になれよ」という良心と、この三つがくちゃくちゃになって、小学生のプロレスごっこのようなか弱い姿で縺れ合って、内臓のすべてが沸騰を起こし、脳味噌がトムヤムクンのようなマニアックな酸味を帯び、そのふたつが複雑に絡まりあって咽を通過し、口から煮えたぎったトムヤムクンを吐き出しながら「くおーっ」という奇声を放ったのである。そして同時に、猿が社交ダンスをしたような、へんてこなポーズをとって、あらためて「くおーっ、くおーっ」と叫んだのである。
きっとその姿は、人間の根源的な姿であったと思う。というのは、人間というのはなまら昔、言語というのを持っておらず、感情というのをパフォーマンスで現していたと推測される。つまり僕はこの時、感情を表す言葉、というのを失っていたのである。やり場のない感情というものが爆発する時、人間は言葉を失い、その感情を表す為に奇怪な行動をするのである。僕の場合でいうと猿の社交ダンスであったが、これが場合によるともっと浅ましい行為に及んでいるかもしらんのだ。例えば殺人とかレイプとか痴漢とか盗みとかである。僕の場合で言うと、この猿の社交ダンスに至った理由というのがアスパラであったが為にこの程度の行為で済んだのだが、これが例えばセックスであった場合、そらもう恐ろしいものであると推測されるのである。
例えば、童貞というのがいる。しかしこの童貞は童貞のくせに婦女子という生き物を恨んでいる。童貞のくせに婦女子を恨む、というのは実に不可思議に思う人もいるかもしらんが、その人は童貞をなめている。否、人間というものをなめている。なぜなら友人は自分の鏡、あるいは妻は夫の鏡、若者は社会の鏡、などとよく聞く。これを考えた場合、童貞にとっての鏡は特定の婦女子ではなく、老人を除く婦女子全般をいうのである。この場合、ロリコン、主婦、中年、という特定された年代に執着する性癖を持つ者もいるため、あえて老人だけを省かせてもらうことを了承して頂きたい。そこで童貞は、自分という存在と婦女子を比較する。すると、すべての婦女子が手の届かない存在のように感ずるのだ。つまり鏡の関係でいうと、若者が調子こく社会というのは、社会がだらしないから若者が調子こくのであり、治安の悪い国の政府は政治力が低下しているから治安が悪いのであって、これらは正比例しているのである。頑張ってる政治家もいるが力が足りないため、図に乗った悪党と力関係が均等してしまうのである。これを考えると、童貞は自室でむらむらしても、そのむらむらを解き放てる手段は自分の右手、左利きの場合は左手しかなく、しかし世間へ出ると婦女子どもは皆洒落込んで、可愛いルックスの娘などは恋人をこしらえて、とっくに性体験をクリアしている。すると童貞はさらにむらむらして、しかし自室に帰ると右手と左手しかない。これは無念だ。この無念が苛立ちに変わり、世間の婦女子に憎しみのようなものを抱き始めるのである。僕にとってのアスパラである。つまり、セックスをしたいのである。しかし誰も振り向いてくれん。だから愛憎を抱くのだ。愛は憎しみに変わるのである。そして最悪の道を辿ると、気の小さい童貞は自分の思い、というのを告白する勇気を持たぬ為、すっかりいじけて、例えば幼児など、まだ浮世の垢の染み付いていない、ホラ吹いてもばれないであろう婦女子を選んで、誘拐だの鬼畜の行為に及び、嫌がって大声をあげられたらびびって首を絞めたりするのである。そら大声出すだろう普通。しかしこのタイプの童貞は告白したら断られるかもしらん、という理由で同世代の婦女子に近寄れず、告白しなくても近寄れる幼児に近づいたわけであって、このような甘い考えの為、まさか幼児にさえ拒絶されるとは考えてもいなかった、だから大声を出されたらびびって首に手をかけたりするのである。始末に終えん。あの世で存分にセックスをしてほしいものである。
近頃の犯罪は童貞的である。性犯罪もそうだが、例えば敗戦とかの国や社会や人生に拘わる大きな衝撃、目に見える打撃などが無いにもかかわらず、何となく不安で、何となく苛立って短気を起こすような感じの事件が多いように思う。実にちっちゃなきっかけが、自分自身ですら予測していないようなでかい犯罪に発展しているように思えてならんのである。例えば僕なども、こんなアスパラごときを買えぬ国などは嫌だ。革命してやる。そして僕が独裁者になって、すすきのなどに「アスパラパブ・あすこにアスパラ」などを作ったり、ビラ配りを禁止した上でアスパラ配りをせよ、という法律を作りたいと思う。せめて「すすきのアスパラ条例」というのを作り、最低でもスナッククラスの飲み屋では通しにアスパラを出すべきである。これに歯向かうものは皆粛清したるのだ。面倒臭いから選挙なんかしないで、アスパラが好きか否か、というだけで僕の側近を選ぶのである。大日本アスパラ。アスパラ食えんと戦争したるぞこら、なめんなよ、この野朗。などと、たかがアスパラごときで独裁者さえ生むかもしらんのであり、これを考えた場合、あまり童貞をなめないほうがいいと思うのである。童貞というのは童貞を失うと、かつての童貞を馬鹿にするものである。これもまた、正比例しているのである。これは今も繰り返している。童貞を失った者ほど、童貞に優しくする、これが今の犯罪を少なくする唯一の方法である。同時にもっとたくさんアスパラを作ることが大事である。
僕は肉を食う。もう、死ぬほど肉を食ったる。というのはホワイトアスパラのせいである。ホワイトアスパラが売っていないため、僕はもう、肉しかないのである。そして肥えた。間接的にアスパラ太りともいえる。アスパラで肥えた、なんて実に珍しいといえる。つまり僕は貴重な肥え方をしている、ともいえる。そして同時に酒の量が増えた。これもまた、アスパラを忘れるために酒が増えた、ともいえる。間接的にアスパラ中毒である。このままだと僕はアスパラでアル中になるかもしらん。数年後には痛風になった揚句肝硬変になるかもしらん。くそ。アスパラのせいで僕は早死にするかもしらんではないか。ちょっと情けないではないか。実に無念ではないか。くそ。畜生。超むかつく。僕は行き場のない感情に支配され、言葉を失い、今度は「ぐおっ」という奇声を放って猿にマウントポジションと奪われたような格好をして、同時にその拍子にテーブルに左足を打ちつけ、同時にテーブルに置いてあった焼酎の水割りが注がれてあった安いコップが転げ落ちて、その脇に大切に保管してあったニュークラのホステスの電話番号が書かれてあった名刺がびしょ濡れになり、番号を記した安いボールペンのインクが滲み、とうとう見えなくなり、僕はマウントポジションを奪われたままの切ない姿で、猿に敗北した人間のような顔で泣き崩れたのである。かしこ。
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by hasumaro | 2006-04-24 20:52 | エッセイ
一時間半の世相
詐欺師が多い。なぜか。それは楽をしたいからである。そら僕も楽をしたい。しかしなかなか楽ができん。なぜか。お金を稼ぐということは利益を生まねばならんわけで、利益を生まんと給料がもらえないのである。
利益というのは例えば、仕入れをする。それに販売価格を付ける。仕入れたお金よりも多くお金をもらうための方法である。仕入れと売価の差額が利益なのである。例えば百円のものを売って利益が三十円ほどだと、一個売ったところで三十円で一月暮らせる奴はいない。だから頑張ってたくさん売る。社員が五十人くらいいると、そらもう、気の遠くなるほど、あるいは気を失うほどたくさん売らんと食っていけないのである。
こんな話をしたら僕の尻の穴が小さくなる。つまり、びびるのだ。なぜにびびるのかというと、僕が一人食えるくらいの利益を生むためにどれくらい頑張ればいいのか、それを具体的に考えると想像を絶する、というか具体的に「一日三百個売れ」とか言われると、気が滅入る。何も考えたくなる。家に帰ってヤング・マガジンとかを読みたくなるのである。というのは三百なんて数字はものすごい。僕のやる気を圧倒し、やる気がなかなか出なくなる数字である。こうしてやる気をなくした連中は一斉にいじけだして、「そんなことなら楽したい」と思うようになるのである。
資本主義社会というのは必ず落ちこぼれを生むのである。全員が一緒に成功は出来ないのである。自由社会ってのは競争を作って、競争というのは一番もいればビリの奴もいるし、資本なんつっても平等に振り分けられるもんじゃないし、いつでも余ってるもんじゃないし、一番からビリまでの間に差が生まれることは致し方ないのである。利益を多く生んだ奴は大金を得て、さらにでっかいビジネスをしたりするし、利益がちょっとしかない奴はこれ以上減らさぬように、またはもっと利益を得るために日々を頑張るしかないのである。僕などは例えばニュークラで、一時間半で一席一万三千円、などと言われると、時間ばかりが気になってゆっくりホステスとホラも吹けぬのである。つまりちっとも楽しんでいないのである。平たく言うと利益が不足がちであることが原因と思われるが、一方でなぜにこのように楽しめぬのにも拘わらずニュークラに行くのかと言うと、格好をつけているだけである。実に浅ましい限りである。こまったものである。
このような様々な事情や理由から、結果、この資本主義・自由社会からはみ出した結果、「俺は社会の競争に疲労したので楽をしたい」と思い立ち、「しかし、やっぱお金もたくさん稼ぎたい」と考える者達が生まれてゆく。この者達の多くは詐欺師になるのである。「楽をしてお金を稼ぐ方法」というのを具現化させたひとつが詐欺なのである。
例えば、先に述べた仕入れと販売価格、ということで考えると、麻薬というものがある。麻薬というものは人間の精神を犯す、レイプすることによって仕入れ価格や販売価格に変動がある商品である。ヤクザや暴力団関係者、あるいは密輸組織などの間ではある程度の相場があるかもしらんが、しかし麻薬を購入した後の中毒具合によって、少なくとも中毒者一人に対する単価は色々節操なく変動するものと思われる。なぜかというと、精神がおかしくなることで商品価値が上がり、または社会の秩序や法の関係などで需要価値も変わるため、中毒者が増えると利益は増えるが、しかし社会は警戒を強めて取締りを強化すると、今度なかなか売れなくなってくる。だから稀少価値が高まって、手に入れられること自体が難しくなり、しかしこれが付加価値となってさらに利益が弾むのである。人間というものは阿呆なので、ひと時の快楽に結構簡単に敗北する、ということは歴史の上でも証明されていることであって、危険をおかしても麻薬を売ろうとするし、一度快楽を知るともっと知りたくなってさらに中毒になってゆくのである。需要と零余。麻薬を売る連中はだいたいにして昔から「これやると気持ちよくなるぜ」なんつって、頭の悪い若者をそそのかすのであって、昨今であると、「麻薬がダイエットに効果的」だのと明らかな嘘を言って販売しているのだから、呆れ返って屁も出ないのもつまらないので僕は屁をしたくなる。これは昔から詐欺の手口なのである。そもそも「楽をしてお金稼ぎたい」となると、必ずその方法は非合法になり、手口は詐欺になるのだ。サンクスとかで売れないから、街角でこっそり売るしかなく、気軽に試せる商品でないため販売する側は話術が必要になる。つまりホラ、嘘を平然とつけるものに詐欺師の才能があるのだ。
騙される側も悪い、という論調がたまにある。これはいじめについて語る場合の「いじめられる側にも問題がある」というのと同じパターンである。箸にも棒にも掛からぬ若僧が一丁前に麻薬をやる、というのは多分「これをやったら不良になれる」というような頭の悪そうな理由があるのだと思う。ステータスのような感じで廃人になっているのだから同情するのも面倒臭いが、詐欺についても、あるいはいじめについても本来それを行う者の方が悪いに決まっているわけであって、騙される側やいじめられる側も悪いとなると、そもそも結論なんて出ないのである。結論が出ないと断罪することも出来なくなるのである。もうそろそろ「人に殺される側にも問題がある」なんてことを言う連中が出てきそうで恐ろしい。
詐欺師と売春婦のいない国は存在しない、という。どちらも売る者がいて買う者がいる。共通点は快楽である。犯罪と知っていながら販売し、それを買う。ともすれば永遠に終わらない継続する犯罪である。一部の国で売春が認められているのは、人間の快楽に対する欲求というのが並大抵ではなく、犯罪を犯してでもやったる、というくらい強烈な欲求であることを知っているためそれぞれの政府が「ま、セックスくらいはいんでない?」と認めているのだと思われる。性を封印された国、例えば共産圏の国とかでも売春婦が存在するというのだから、人間というのは強欲である。その強欲が抑圧され、あるきっかけによって解放されると、それはそれは壮絶なものであると想像される。例えば戦争などがそうである。戦利品として、敗北した国の婦女子を一斉に犯しまくった軍隊もあったのだから、世も末である。だから少しはガス抜きが必要であろうけれども、上手にガス抜きのシステムを確立している国こそが最も安全といえるのかもしらん。
近頃の詐欺といえば、架空請求詐欺、ネットオークション詐欺、宗教詐欺、などが代表的であると思われる。どれもこれもせこいことこの上ない詐欺であるが、そもそもやっちゃいかんことをやる場合、陰でこそこそやるわけで、陰でこそこそやる商売ってのはそもそも胡散臭く、しかし胡散臭いだけでは売れんため色んなホラを吹く。僕の場合で言えば、豊満で肉感的な婦女子と出くわした場合、思ってもいないことを言って何とか恋仲に落ちれぬものかと色々企てる。思ってもいないこと、ということはそもそもホラを吹く、嘘を言う、ということであって、しかし、知性のある婦女子と言うのは簡単にホラや嘘を見抜けるもので、見抜かれた僕は捨て去られた雑種犬のような顔で走馬灯を見る羽目になるのである。実に可哀相なものである。
そんな、可哀相な思いを乗り越えて、僕は日々労働しているのである。このように日々頑張っている僕を詐欺師が騙そうとするのは、実に悪辣極まりない、鬼畜の類である。そもそも僕は苦労もしているのだ。本当は社会の実力者のようなルックスで、ニュークラとかに八時間くらい入り浸りたいところを、びびりながら一時間半で帰宅するのである。それを、詐欺師という連中は、ともすれば三時間くらいニュークラに入り浸れる奴もいるというではないか。そんなのは卑怯ではないか。ずるいではないか。日々忙しい中を、尻の穴や陰茎を失うくらいの思いで、その存在を忘れかけるほどの思いで労働しているというのに、実にむかつく。くやしい。腹立つ。
例えば「いやぁ、詐欺をするのだってね、実際忙しいし、大変なものだよ」などと嘯く詐欺師がいたなら、すべての人民は騙されてはいけない。「詐欺をすることに忙しい詐欺師」なんてのはギャグの類である。よく寄席などで見られるベテランの漫才師の使うネタのようなものである。詐欺師が忙しい、なんてのは昔からギャグなのだ。だからすべての人民は騙されちゃいけない。つまり笑わなければいかんのだ。「いやぁ、今日も詐欺するの忙しかったぜ」などというぼんくらがいたら、すべての人民は笑わなければいけない。さあ、笑うのである。勇気を持って笑うのである。奴らへの断罪は笑いである。怒りを込めて、ギャグを笑わんとならんのである。くそ、僕は笑ったるぞ。こら。ぎゃひゃひゃひゃー。ぶひー。などと心の中で笑いながら「ニュークラブ・マダムのお説教」を後にしたのである。かしこ。
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by hasumaro | 2006-04-16 20:38 | エッセイ
天ぷら部屋のあなた
身支度を終えて、いざ出勤しようと景気よくダッシュし、自室の鍵を閉めた。しかし、はて、ガスの元栓閉めたかしらん、なんて不安になってまた鍵を開けて自室に入って、靴を脱いで再びダッシュして元栓を覗いてみたら閉めてあった。安心して唇を尖らせて口笛を吹く時みたいな口で「ほー」っと吐息を漏らしてくるん、と振り向き直して再度ダッシュ。自室を出て鍵を閉めて、エレベーターのスイッチをプッシュ。「どうする、アイフル。アイフルです」というCMのフレーズを口笛で吹きながらエレベーターの到着を待っていると、また一抹の不安が僕の心を、つん、と突く。はて、窓の鍵閉めたかしらん。ぽん、などとやる気のない音を鳴らしてエレベーターが到着したのだがやはり窓の鍵が気になってしょうがない。んんんー、と唸ってから再度自室のドアーを開けて今度は靴は脱がずに土足で上がり込んで、窓の付近までカカトでダッシュ。しかし窓の鍵は閉まっていやがった。んんんんー、という行き場のない怒りというか無念のようなものが、僕ののどチンコを鷲掴みにしながら込み上げてきたのを必死に我慢しながら、またカカトでダッシュ。自室の鍵を閉めてエレベーターの方を見ると一階まで下っていやがる。んはぁ。という変な声を吐息と同時に漏らすと、陰茎の付近が痒くなった。それから「白石区川下付近を一人で歩くような気持ち」という唄を即興で作曲し、これを心の中で唄いながらエレベーターの到着を待ったのだが、一階で止まったきりエレベーターがなかなか動かないのである。どっかのぼけが何か荷物のようなものを積んで降ろしているような物音が聞こえる。朝っぱらから、人が忙しい思いをしているというのに、のんきに引越しなんかをしていやがるのである。たぶん。「このくそったれが。朝から何しでかしていやがるんだイタチ野朗。お前の家の米にタイ米交ぜるぞ馬鹿野朗」などと心の中で罵倒していると、今度は、はて、昨夜煮込んだトムヤムクンを冷蔵保存したかしらん、などと、ここに及んでさらなる不安が僕の心の中を、じとじとと湿り気の帯びた肥満児の汗のようにしつこく滲み渡ってくるのである。ぬはん。という一見オカマの人のような喘ぎを漏らした僕は、ああ、耐えられん、と思ってくるん、と激しく肉体を回転させ、さらに再度自室のドアーを開け、土足で上がり込みダッシュ。キッチンを覗き込んだ。そこにトムヤムクンはない。冷蔵庫の中でのんきに冷えていやがった。僕はトムヤムクンを冷蔵庫から引き出して、部屋中にぶちまけて、うひひひひひー、と裏声で、ファルセットで奇声を発したく思ったが、しかしそんなことを本当にしたら掃除が大変な上に、さらに出勤が遅れる。というか、もうすでに遅刻する可能性が高いような予感が先程からしている。僕は行き場のない、八つ当たりの場所のない、八方塞の怒りと憎しみを下っ腹に溜め込んでから少しずつ外部へ排出しようと思い深呼吸をしたら屁が出た。途端、うひひひひー、と笑って、冷蔵庫を閉めた。汗だくだった。全身が天ぷらのようであった。非常に疲れた。たぶん痩せた。それからへんてこなお経のようなものをぶつぶつ呟きながら自室を出て、エレベーターのスイッチをプッシュして、ぽん、という音が鳴ってエレベーターにようやく乗り込んだのである。すると、はて、部屋の鍵を閉めたかしらん、という不安が心をつん、と刺し、ひくっ、と一瞬体が動いたがしかしエレベーターの扉はすでに閉じ、一階に向かって下り始めている。僕は諦めた。すべてを。もう嫌になった。自分が。そして世の中が。この社会全体が。僕は人間を辞めたくなった。こんな、朝っぱらから天ぷらまみれになるような不安に脅かされるような生活は嫌だ、と思った。ぽん。一階に到着すると、僕は僕を引きずるようにずるずると歩き、車に乗り込んで「馬鹿野朗。色んなものが馬鹿野朗」などと怒鳴り声をあげて、ぷすぷすぷす、などとエンジンがかかった音にも腹が立った。
たったひとつの不安が、多大な不安を生むのである。くだらないことがいくつも重なると、真剣になるのである。たかが元栓やらトムヤムクンやらが原因で、人間を辞めたくなってしまうのが人間であるということである。実によわった生き物である。そのたったひとつのくだらない不安が無数に積み重なって、場合によっては、うひひひひー、などと悲鳴をあげて、非人道的な、反社会的な行為にまで及びかねないのだから、人間というものは危険な生き物である。そんなことを考えると、本当に人間を辞めて、サボテンとかになりたくなる。しかし、そう思うこと自体が人間である証、とも言えるのであるからこれ、八方塞の行き止まり、尻の穴も見当たらぬのである。
例えば、今は花見のシーズンらしい。東京の井の頭だか亀の頭だが知らんが、そんな名前の公園で花見をしている者らを毎年テレビで目撃するのだけれども、「火を使っちゃ駄目」と言うと火を使い、「ゴミを投げちゃ駄目」と言うとわざとゴミばかりを投げる。この者達は、この花見に参加していない人々から見ると確実に馬鹿である。しかし皆馬鹿とは言わん。遠慮をしているからである。なぜに遠慮をしているかと言うと、うひひひー、と神経の一部が断絶して、錯乱を起こし、理性というものを放り投げて非人間的な行為に及びかねぬ、人間の危険性というものを世間の人らは何となく、この者達の、たかが花見という程度のイベントで狂乱を演ずる姿を見てつい連想してしまうからである。きっと。このような人間の狂態というものは、実に気味の悪いものであり、人類の潜在意識の底辺にこっそり隠れた野性的な部分であり、この部分に人間というのは危機意識を持っているのであって、これを人類が自由に解放せしめる時代が来ると、きっと人類は、やばい、と感じると思うし、この危機意識によって人類は何とか人の姿を成してきたのだと考えられるのである。しかし一方でこの者達は、なぜにたかだか花見ごときで冷静であれば恥辱ともいえる行為を大衆の面前で開き直って行えるのかというと、きっと普段は、花見のシーズン以外は、実に抑圧された生活を強いられているからである。例えばそれは、冒頭で述べたようなちっちゃな不安に朝っぱらから翻弄されるようなもので、というのは、なぜに僕は朝から元栓やらトムヤムクン相手に天ぷらになったかというとこれ、出勤、という使命があるわけであって、その使命を命じたのは僕自身の人生が命じたことであり、というのは出勤しないと僕の生活および人生そのものが困るからであって、この使命がなけりゃ僕だってここまで天ぷらにはならない。ゆっくり色々と諸事における不安を、着々と確実に解決するような効果的な手段を用いたわけであって、それが、出勤、という僕の人生のすべてがかかったプレッシャーによって、あのような、ともすれば人の姿を辞めかねぬ、天ぷらにしたサボテンのような有様に成り果てたわけであって、そのプレッシャーがなければ、「元栓なんて、天ぷら食った後に考えればいいじゃん」などと、心の余裕が生まれたわけであって、この場合の心の余裕というのは、例えば花見の場合であれば、「こんなに派手に騒がなくっても、いつだって騒げるのだから、せっかく花見に来たんだから、花見て微笑もう」などと、理性や知性を持って生まれた人間という生き物の生来の特徴、それは情緒や哀愁や儚さ切なさ、それらを喜びへと変換できる想像力等、それらの人間性というものをふんだんに活用した対応を行えるはずであり、しかし毎年狂乱を演ずる自体を目撃する羽目になるということは、皆プレッシャーがあるからであって、だからむしろ理性や知性という人間という生き物の特徴を蔑ろにした上で、人間の動物的な部分ばかりが際立つような浅ましい行為に及んでしまうのである。人間は確かに動物である。しかし猿の尻が赤いように、人間にも特徴というものがある。それは文明や文化、果てには国というものを作れる、というところである。それらは色々面倒臭いことを考えたり議論したりしてやってこられたことであり、それをいちいち、うひひひー、などと自棄を起こして切れていたりしたら、人類は井の頭はおろか、砂漠とか山の中などで、生まれてからずっと元栓などを心配し、いちいちストレスを解消するために年がら年中花見をやっていなければならんのである。こうなれば国は破綻するし、人類自体が破産する。地球はゴミだらけになって、娯楽といえば火を焚いて肉を焼く、とかウインナーソーセーヂを焼く、とかしかなくなるだろう。
というようなことを考えながら僕は車を走らせて、結果遅刻したのだが、このような細かいことを考えていると花見すらする暇がないではないか、だからこのような細かいことを考えないでいっそ花見をしたらいいではないか、というようなことを社の者に訴えたのだが、遅刻をした上で花見をしたい、というようなふざけた男の話に耳を傾けてくれる優しい包容力のある人間は我が社にはおらず、僕はさらに天ぷらになって、はて、トムヤムクン腐ってないかしらん、と不意に不安が心に滲み渡り、揚句「トムヤムクンが腐っているか否か」という、社にとっては実に不利益な不安がプレッシャーになって、いよいよ仕事に手がつかなくなって、デスクの上で少し体調の悪いような感じを醸し出しつつ、社の者に「具合悪いなら早退してもいいよ」という言葉を言ってくれるのを促したのだが最後まで無視され、温い油でおよそ八時間程度揚げられたような、じゃぶじゃぶの天ぷらのような姿に成り果て、夕刻五時過ぎに仕事を終えてようやく、うひひひー、と泣きながら叫んだのである。かしこ。
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by hasumaro | 2006-04-03 22:32 | エッセイ



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