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馬鹿につける薬は無視
馬鹿に「馬鹿」と言ったら怒るのである。そらそうである。なぜなら馬鹿だから改めて馬鹿と言われたら「確かに馬鹿だけど、そのように面と向かれて馬鹿と言われるとやっぱむかつく」と思うからである。しかしながら馬鹿でない人を「馬鹿」と言ったら、これもやはり怒るのである。なぜなら「俺馬鹿じゃねぇよ」と思うからである。だったら馬鹿な人、というのはどのような人で、馬鹿でない人というのはどのような人なのだろ、と考えた場合これ、自分で自身を「馬鹿かしらん」と自覚している人が馬鹿な人といえるのであり、自分で自身を「俺は馬鹿でない」と自覚している人が馬鹿でない人といえるのである。しかしながら双方のタイプに「馬鹿」と言ったら必ず怒るのであるから、この場合何もいわない方がよいのである。こいつ馬鹿、と思っても我慢して「いやぁそれでさ、昨夜食ったそら豆が煮込み過ぎてぶよぶよだったよ」などと言った方がよいのである。人間の社会と言うのは「馬鹿」と言われて怒って、それが果てに殺し合いにまで発展するものなのである。僕は戦後生まれである。日本国憲法に洗脳され、憲法九条のように争いを好まず、しかし争いを仕掛けられたら無抵抗のままだと死ぬので、死にたくないから最初から争いを行わぬようにそら豆などを煮込んでいたいと心に誓う、純潔の日本人である。ここで言いたいのは、余計なことは喋るなドアホ、ということである。
例えば僕の話をすると、昔、思春期の真ん中辺りで顔面を猿のようにしていた時代、「俺は太く短く生きたる、ぱっと咲いて散る桜木のごとく壮絶に死んだる」と宣言をしていた。しかしこれは厳密に言うとホラであった。不本意にも三十路を迎える頃、「ああ、あんな余計なこと言わねばよかった」と実に後悔したのである。なぜに後悔したかというと、そのひとつに、痔を患った、ということが挙げられる。壮絶に死ぬ予定が痔の痛みに耐えられず、肛門病院に出向き若い看護婦にライブで尻を見せる羽目になり、筆舌に絶するほどの仕打ちをされ、激痛と恥辱に塗れながら寝かせられたベッドの上で思わず気が遠くなり、やがてお釈迦さんの姿が見え、お釈迦さんに尻を突き出したら無視され、すごく淋しくなって目覚めると、僕は涙を流して尻を出していた、という実に切ない経験をしたのであるが、実際、壮絶に死ぬ、と宣言していた男が尻を出して照れたり、その前に死ぬのであれば痔など治さなくてもいいのである。痔を治す、ということは、これからも生きてゆく、ということであり、この時点で僕のかつての宣言はすべてホラに変わってしまったのである。それからというもの、婦女子にふられたりしてヤケ酒を呑んでも何だか様にならず、「だってお前、この間痔治したじゃん」という叱責が僕の頭脳に木霊して、ヤケ酒も実に白々しく感じたりするのだ。だからといって「うん、このお酒美味しいね、どこの産地だい?」などと今更居酒屋の女将に通ぶってもこれもまた様にならず、実に忸怩たる思いで安い焼酎を啜り込んでそら豆を齧るのである。その後ニュークラやらランパブやらに出向いて快楽的な日々を過ごし、その頃になるとすっかり死ぬことを忘れ、「明日何食おうかしらん」などと思考が肥満を始め、それが肉体にも及び、太くて短い姿となって浅はかにもすすきのなどの繁華街をスキップしていたのである。困った男である。
口は災いの元、というが僕の場合で言えば尻が災いした。尻のせいで自分の人生が多少狂ったのである。最初から「俺は必ず痔になったら治す」と宣言していれば尻を見せても屈辱は感じなかったはずであり、むしろ「とうとう念願の日を迎えたのだ」などと喜んでぺろん、と尻を見せられたのである。無念である。このように僕は尻のせいで無念さえも抱くのだが、しかし実際、あの頃、本気で壮絶に死んだる、と思っていたかと言うとこれ、ぜんぜん本気ではなかった、と言えるのである。痔を治した、という事実は、かつての宣言を後の行動で無効にしてしまった、と言えるのだが、しかしもし僕が痔にならなかった場合を考えても実際は無効になっていたのではないかと推測できるのである。なぜなら結構楽しかったからである。「太く短く生きて、壮絶に死ぬ」という言葉の意味を平たく説明申し上げると、おおよそ二十代で全部やって、三十前に死ぬ、ということになる。しかし宣言後、僕はバンドを組んだり、飲み屋でバイトしたり、スパゲッティを茹でたりして楽しい日々を送っていた。セックスをしたりした夜は「死にたくない」と思ったりもしていたのである。ということは死ぬ気なんてさらさらなく、何となくそのようなことを宣言するのがかっこいい、と思って安易に口走っただけで、実は長生きしたかったのかもしらんのだ。しかし冒頭の馬鹿の話同様、「はすまろは長生きする、長まろだ」などと面と向かって言われるとむかつくので「くそ、死ぬって言ってんだろ」などと怒っていただけであって、しかし本気で怒って殴りあいになるとそれが殺し合いにまで発展するのが人間の社会であるので、ここは平和憲法の精神で痔を治したりニュークラに行ったりそら豆を齧っていた、とも言えるわけで、僕自身のことも含めて、あまり余計なことは喋らん方がよいな、と思う今日この頃である。
亀田というボクサーがいる。三兄弟の長男坊らしい。試合前の会見などで色々なことを喋って物議を醸しているらしいが、あれもまた敗北した場合どうするのかしらん、とつい心配するのである。有言実行というのが流行っているらしいが、僕の場合で言うと有言実行に失敗した。亀田も一度痔になればわかると思うが、しかしボクサーというのは寝不足したり、三日三晩タイ料理を食ったり、安いウイスキーを四日四晩飲酒したりしないであろうから痔になる確立は低い。だからきっとこれからも「俺は1ラウンド1秒くらいでぶっ倒したる、煮込みすぎたはんぺんのようにずぶずぶにしたる」というようなことを言うのであろう。このようなタイプは「馬鹿」と言われたら怒るだろう。だから亀田に勝つには亀田の挑発に乗らないことだ。「次の試合でお前に痔を患わせてやる」などと暴言を吐かれても、試合当日にとっても綺麗な尻をあえて見せ付けたりすればいいのである。すると亀田は「ああ、あいつ尻綺麗やん、あかんねん、あんけらそ」などと慌てふためき、その隙を狙って怒涛のラッシュをするのである。どさくさに紛れて尻を顔面にくっ付けたりしてもばれないだろう。有言実行に勝利するには不言実行である。なぜならそんなに喋るのは自分が不安だからであり、喋る、ということにおいて一番辛いのは無視をされることだからである。
人間というのは不思議なもので、死にたい、と口にするのは生きたいからであったり、しかし生きたい、と思う人はあまり口にはしない。なぜなら「生きたい」という思いの方が切実だったりするからだ。切実な思い、というのはなかなか口を突かないものだ。努力をして、ようやく念願を叶えた後にようやく「俺は生きている」と、実感を得て言葉が漏れるのである。例えば僕のように痔を患うと「痔ごときで死にたくねぇ」と真剣に思うのである。だから必死で生きたいと思って肛門病院へ出向き、無言で尻を見せたのである。
死にたい、と口にする場合、一方で逆の思いを抱いている。それは生きたい、という思いと、生きたいんだけど今は辛い、という、ちょっと同情して欲しい、伴って欲しい、という思いである。慰められると人間はやはり楽になれる。しかし安易に同情すると「同情なんかされたくねぇ」などと叱られてしまったりする。これは自身の弱い部分に自己嫌悪を抱いているのである。見せたくなかった弱い部分を悟られたことに照れを感じているのである。だからこの場合、気付かない振りをしつつ、ちょっと寄り添うくらいが丁度よく、隣でそら豆を食ったり肛門病院に付き合ったりするのがいいのであるが、しかしこれ、実に面倒臭いもので、だからいかなる場合でも余計なことを言わず、我慢してだまる、というのがいいのかもしれんが、国民全員が黙り込むと知らないうちに国が消滅するかもしらんので、やはりたまには喋った方がいいのかもしらんが、このように考えると人間というのは実に厄介で面倒臭いので、僕はもう何も喋らず、今日から一週間ぐらいそら豆を煮込もうかと思う。かしこ
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by hasumaro | 2006-05-30 13:32 | エッセイ
色田肉子と油田濡男
呑み会というものがある。友人や知人、職場の同僚や上司、部下などと数人で円卓を囲み、タコザンギやらイカザンギやら塩辛やら里芋やら大根やらを喰らい、そしてアルコールをひたすら摂取する、というイベントである。
人間というのはなぜにこのようなイベントを催すのかというと、一人でお酒を呑むのが淋しいからである。例えば一人でベランダなどに佇み、狭い夜景を眺めながらチンザノなどを呑んでいると不意に涙が溢れ、小便を漏らす、というような実に切ない事態に発展しかねないのであり、このような切なさに一人で耐えていると必ず人間というのは僻みくさくなり、嫉妬深くなり、人間というのは僻みっぽくて嫉妬深いと必ず嫌われるもので、そうなると本当の意味で一人になる。これを世間では孤独というのである。つまり、呑み会のようなイベントに出席する者らは皆孤独である、といっても過言ではないのだ。
呑み会が始まると必ずべろべろに酔っ払って全裸に成り果てる者が出現するが、これは孤独というものを具体的に表現している様、といえるのであって僕はこのような全裸の者を軽蔑する気はない。しかし僕自身といえば未だかつて世間に向かって全裸というのを披露したことはない。つまりこれは、呑み会に出席していながら僕は孤独である、と言えなくもないのであり、だったら全裸になれるくらい皆と打ち解けあわねばならん、という話になるが、しかし全裸になるには全裸になるタイミングというものがあって、というのは、呑み会の出席者が円卓を囲み、「こんばんは」「こちらこそ」などと挨拶を交わす最中にいきなりぺろん、とやったらこれは確実に軽蔑に値し、ともすれば僕は逮捕されるかもしらん。ここで言えるのは、全裸そのものに皆愛着を持って受け入れているのではなく、むしろどうして全裸になったか、というその根本をこの際無視した上で、というのは呑み会というのは上に述べたようにべろべろに酔っ払う者が度々出現するので、人間というのは酔うと何も考えたくなる、昆布だしを拵える際に沸騰してから昆布を取り出すのか、沸騰する直前に昆布を取り出すのか、など、こんなことを考えられる思考というのを失った状態を、酔っ払う、というのであって、だからこの場合で言うと、全裸になるまでの過程というのを飛び越えていきなり全裸になった結果を見て皆笑ったり転がったり屁を垂れたりしているのである。全裸が持つ意味や全裸になった理由というもの、つまり背景に存在する孤独というものに共感や共鳴があって歓迎するのではなく、ただ、その場に存在する全裸を見て笑っているだけなのである。このように考えると、僕が全裸にならなかった理由というのがおのずと見えてくるのである。
つまり、僕は全裸そのものを歓迎したのではなく、彼が全裸になったのは全裸なりの理由があって、それを僕は孤独だと解釈し、その部分に共感・共鳴したのである。だから全裸に行き着いてしまった彼の孤独を理解しない酔っ払いどもに、僕がいくら頑張って全裸になっても本当の共感・共鳴はないはずであり、そうなると僕はますます切ないではないか、淋しいではないか、そんなのいやんである。だから僕は最後まで全裸にはならなかったのである。
しかしここで言えるのは、全裸になった彼と全裸にならなかった僕、結果は違っても互いの意味や理由は同じである、ということである。つまり僕らは孤独だったのだ。人間というのは酔っ払うと狂態を演ずるものだが、その狂態に行き着くには各々の孤独が存在し、結果だけを見るとこの上なく浅ましく、完全に猥褻であるが、しかしこれは人間の内面に潜む魂が自らの肉体を貫き、そうして表現された姿である、とも言えなくもないのであり、芸術性は皆無であるが、表現という上ではこれほど自分の魂に忠実な姿はないのである。しかし、僕は服を着ていたため、結果人格というものが辛うじて保たれたが、全裸の彼は明らかに変態という烙印を押されたはずである。これを考えてみると、例えば芸術の場合で考えると、世間に向かって全裸を晒した行為というのは芸術の上では成功しているのだ。なぜなら僕は服を着て常人のように佇んでいただけであり、つまり結果だけを見ると何もしていない、そこらへんの人であり、セックスの上では童貞のようなもので、無一文でニュークラに行った素人のようなものである。芸術のようなある一方的な世界では全裸が成功者になれるのだ。しかしここで忘れてはならんことは、僕も彼も普通の世界の住人であり、決してSMの世界でカリスマ縄師になったわけでもないのであって、非常に残念であるが、僕らが暮らす世界では僕は素人で、彼は変態でしかないのである。無念である。
呑み会というものをもうひとつ考えると、欠かせないのが異性の存在である。男は婦女子が来ると盛り上がり、男が来ると婦女子が盛り上がる。こうして国家と言うものの基盤が伝承されてゆくのである。人間というものは不思議な生き物で、男のみで呑みに行く場合は必ずホステスという名の婦女子が存在するお店に行く。婦女子の場合でいうとホストクラブである。このように男女各々が螺旋のように繋がって、それは孫の代まで続くのである。僕の孫もやはり婦女子が好きで、猿のような顔でニュークラに行って文無しになったりするのである。これは申し訳ないが、遺伝である。孫というのはそうして成長するのであるから、頼もしい限りである。うほ。
呑み会に婦女子が出席する場合、気をつけて頂きたい点がひとつある。よく男女という性別を超越した人間としての友人関係、という幻想を抱く者が多いが、男の立場から言わせて頂くと、すべての男は変態である。僕の場合でいうと服は脱がぬので表立った変態性というのは乏しい。つまり自身の孤独などの内面的なものが体内や頭脳の中のみで暴れるタイプであって、思考がメインで行動はあくまでもメインではない。実際はやらんがレイプもののエロビデオを好むタイプである。そして満足さえ得られるタイプなので、寛大に表現すれば結構可愛い男である。ついでにこのタイプは歯軋りが酷いので直ちに歯科医に診てもらったほうがよい。
同時に全裸になるタイプというのはこれも実は同様で、一見魂に忠実であるが故に実際に変態行為に及ぶように誤解されがちだが、しかし彼はあくまでも自分自身を傷つけたい、精神的に屈辱を感じたい、と思っているだけであって、「ああ、今俺、全裸になってる。そしてそれを皆に見られている。あはん」などと自分自身で実感することこそが重要であるわけで、このような者は見掛けは危ないが実は非常にわかりやすいために安全といえる。つまり自虐的な行為をしないと快楽に到達できないだけなのである。
これらツーパターンは実際は安全である、というのが長年の独自調査で判明したわけなのでここに報告しておくが、同時に一番危険なタイプ、というのも判明したので合わせてここに報告しておきたい。つまりそれは、セックスしか考えていないタイプ、である。婦女子を前にした時点でセックスしか考えていない為、セックスを達成する為の具体的な思案をずっとしているのである。このようなタイプには友情だの友達だの、そんな情は存在しない。そこにあるのは女という名の肉である。ついでに言っておくが、このようなタイプはいくらトマトサラダなどを食おうと、確実に肉食である。人間というのは肉食を中心にすると体臭がきつくなり、確実に肥える。これを世間では、でぶ、という。通常、シラフの状態であればこのようなでぶは確実に婦女子に「きもい」と言われるのだけれども、実にもどかしいことに呑み会のようなイベントであると、大抵の婦女子は酔っ払っているため、そのあたりの判断が鈍くなってしまっているのだ。困ったものである。判断が鈍くなっている婦女子というのは、このような危険なタイプの男の前ではただの肉に映るのだ。でぶというのは肉があると必ず食う。いくら満腹でも必ず食う。そして場合によってはおかわりするのである。実に食欲旺盛なのだ。人間というのは不思議なもので、飯を食う時の顔とセックスをする時の顔が似ているのである。だからここでひとつの判断材料として警告しておくが、呑み会などでトマトサラダや芋サラダなどの比較的軽いものを食っているでぶを見掛けたら気をつけた方がいい。そのでぶは必ず肉という名のメインディッシュを狙っているのである。やばいでぶを呑み仲間に持つ婦女子はひとつの防衛策として、呑み会の会場を最初から焼き肉屋などにすることをお進めしたい。人間というのは不思議なもので、満腹になると思考が弱る。つまり肉を好むでぶの習性を逆に利用した形である。長所は短所である。肉を先に食ったでぶはきっと思考が弱り、あなたを諦めるはずである。
かしこ。
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by hasumaro | 2006-05-24 13:03 | エッセイ
詩 その3

求愛の讃歌


お前の細い腕を俺だけが折ってやる
この命が果てるまで お前を抱いてやる
ここが戦場だとしても 敵に奪われても
無数の銃を発砲して きっと取り戻してやる

いずれ子犬を飼おう ピンクの首輪にしよう
もちろんメスがいい 俺達の小さな娘 

お前が泣き出したら お前を笑わしてやる
どんなに絶望しても 無理矢理ふざけてみせる
だから映画を観よう 限りなく長い映画を
そして夢を語ろう 俺の話だけを聞いてくれ

いずれ子犬を飼おう ピンクの首輪にしよう
もちろんメスがいい 俺達の小さな娘

お前がろくな奴じゃなくても それは過去の話
今がすべてだし 未来はもっと大切だ
お前がわがまま言ったら 俺はジョークを言おう
くだらないことを言っても 無視はやめてくれ

お前が馬鹿になったら 俺は阿呆になろう
だから安心して おかわりをしておくれ

いずれ子犬を飼おう 呼びやすい名前を付けよう
そして散歩をしよう あそこの公園へ寄ろう

もう少し呑まないか ツマミを作ってやるぜ
もっと酔っ払ってくれ ずっと酔っ払っていてくれ

俺達の娘は きっと誰よりも可愛くなるだろう
俺達の娘は きっと何よりも可愛くなるだろう





「愛の讃歌」Coverd by エディット・ピアフ&越路吹雪
(1998年 大安)
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by hasumaro | 2006-05-22 20:36 |
いつか服を脱ぐ日
洋服というものがある。人がなぜに洋服を着るのかというと全裸で歩かぬためである。全裸で歩くと風邪をひくし、誤解されて逮捕されたりする。だから洋服を着るのである。「だったら和服でもいいじゃねぇかぼけ」という罵声が聞えなくもないが、和服というのは似合う人と似合わぬ人がいて、例えば京都の料亭とかの女将さんがステテコで現れたらがっくりするし、落語家がアディダスのジャージーとかを着たら破門されるだろう。同時にキャバクラやニュークラで和服を着たら、僕はたぶん飲みに行くだろう。というように和服というのは人を完全に選ぶ、と言えなくもないような気がしないでもないので面倒だから僕は洋服、といっているのである。ぼけ。
全裸に服を纏った時点で人類は新たな娯楽を得たのだと思う。だから春夏秋冬、いちいち色んな服をデザインしやがり、僕は調子こいていちいちそれらを買いに出向いているのであるが、これではいつか破算するではないか、と思うのだが、僕は海も山も行かぬので、常に陸の上で陸遊びに適した服、即ち洋服を買っている。海や山を趣味に持つ人と同様に僕は陸が趣味である、と言えるのだ。海に行く人は海水パンツやビキニを着るし、山に行く人は登山靴やポケットがいっぱいくっついているようなベストのようなものを着る。僕の場合の陸と共通するのは、服を着る、ということで、それぞれにもやはり流行り、というものがある。しかし海や山には適したシーズンというのがあって、それぞれのオフシーズン中はやはり陸で洋服を着ているのであって、この場合はやはり僕と同様デパートやらで破算を覚悟で洋服を購入しているのだと思う。
せっかく洋服着るんだから、ちょいと色んなの着てみてぇ、などと抜かして、人々は服というものに娯楽性を見出した。和服というのは様式美というものが重んじられ、和服からパンツを見せて歩いたりなどしたら変態だと疑われるくらい娯楽性というものが乏しいと考えられる。そこで洋服となると我が国においてはたいした歴史がないのか、色々と自由がきく。だからパンツを見せてもいいし、むしろ脱いでもオッケーだったりする。僕としては是非とも脱いで欲しいが、最近はあえてパンツを穿いて、それから改めて見せる、というのが流行らしいので実に残念であるのだが、このように考えると、娯楽というものには流行がある、ということが音を立てずとも匂いでわかる屁のようにわかってくる。
例えば、ギャグというものがある。近頃のギャグは「僕は、あるいはわたしは、このように散々たる有様で、じつに絶望に近い状態なのです」というような、自虐的なものが流行っていると思う。それは同時に「そんなに絶望しないで頑張ってよ」などと真剣に励ます者を「何マジになってんだよ、超うざい」というような感じで、他者を拒んで尚且つ自意識が過剰になったような人々を増やす、という波状効果があるように感ずるのだ。確かにこちらはギャグで言ったつもりが、本気で受け取られ、ただのギャグが過大評価されたりして思わず照れたり、抱く予定のなかった罪悪感めいたものを抱く羽目になったりしたこともある。しかしギャグというのはそもそも人に言って初めて存在できるものなので、本気で聞いちゃう人がいても仕方ないのである。ところが最近の風潮といえば、「死にたいと思ったけど肉をおかわりした」というような感じの、つまり意図するのは死のうと思った奴が同時に肉を食う、死ぬ行為とは逆の行為をしながら死にたいと思う、という、思考と行動のギャップをギャグにしたわけなのだが、ここで「あはん、お前馬鹿だな、死にてぇっつって肉食ってりゃ死ぬ以前に太って長生きするぜ」などと言って笑ったり爆笑したりしてギャグが完結するはずが、最近ではここからさらに「まさかこんなギャグを本気に思う奴はいねぇだろ」というような、異論を予め拒んでいるような差別的な雰囲気が漂っているような感じがしてならないと僕は思うのである。つまり、自虐的なことや残酷めいたことを言って周囲の気を引いた上で、しかし最初から他者の異論を拒んでいる、拒絶しているような、天邪鬼というか、ひねくれ者、というかそんな人が多いのではないか、と思うのである。しかし最近の風潮で行くと僕の方がむしろ彼らに「はすまろはひねくれている。ひねまろだ」と言われかねないような気がするので黙って生涯茶柱の立たぬ昆布茶などを啜っているのである。だって昆布茶には最初から茶柱なんてねぇもん、あはは、あは、うひゃひゃひゃひゃー、などと一人で笑ったりしているのである。
洋服の話にひるがえると、いくら流行なんつっても、例えば僕はキャミソールなどは着ない。なぜなら似合わないし、きっと気持ち悪いからである。あれはやはり婦女子が纏うものであるし、婦女子の方が確実に似合うのだ。婦女子の洋服を男が着たら不自然である場合が多いように思うのだが、しかし婦女子が男の洋服を着た場合は似合う婦女子が存在するので実に不思議である。婦女子というのは一体なんなのであろうか。スカートもズボンも似合うなんて、ずるいではないか、卑怯ではないか、だから僕もスカート穿いたる、などとヤケを起して自分を見失うと、僕はきっと変態になるかもしらんので気をつけたいものである。
最近は男も婦女子もみんなぴちぴちした格好をしているように見受けられるのだが、かといってヒップホップファッションなどはひたすらだぼだぼしている。ぴちぴちしている人はきっとだぼだぼを嫌うであろうし、その逆もしかりであろう。僕の場合で言うと気分によって「今日は晴れてるからぴちぴちしたろ」と思ってぴちぴちするが、「今朝は排便の調子が思わしくなかったのでだぼだぼしたろ」と思ってだぼだぼしたりする。あまり流行を意識した行為とは言えぬのかもしらん。だからもう十年以上同じお店でしか洋服を買っていない。そんな僕を見て「あなたは本当のファッションを知らない」と言う人が昔いた気がするが、僕にとってはどうでもよかったので無視をしたが、改めてここで彼の発言を考えると、前途したギャグの話と同じで、やはり僕も彼のことを「超うざい」と思う。彼という存在を拒絶してしまうのだ。しかし僕の着る洋服は、肉体の重要な部分のみをあえて世間に披露していたり、披露はせずともその形及び質感がくっきりとわかる、判別できる、というような特殊性を帯びているわけではないし、自身の肉体のコンプレックスをあえて知らしめてしまいたい、というような自虐性もないわけで、ギャグの場合とはここが違う点であるので、この場合、彼のみが一人で僕に食って掛かった、と論理的に言えるわけである。しかし今思えば彼は非常に不細工であった。特に男のくせに尻の形がぷりぷりしており、横から見ると尻だけが突き出て、まるで小便を我慢しているような格好であった。僕もそれほどスタイルには自信があるわけではないと彼を考慮して念のため言っておくが、しかし僕の尻は結構ぴしっとしている。幼少の頃尋常ではないような遊び方をして、尻に爪楊枝が突き刺さった痕跡が今でも薄く残っているが、それ以外は無傷であって、時代が変われば尻を見せて歩いてもいいと考えているほどである。わかった。この点が彼のコンプレックスを刺激したのかもしらん。僕のヒップに彼は嫉妬したのである。そうか、そうだったんだな。うほほ。可愛い奴め。僕の尻にジェラシーしていたとは。むほ。むほほほほ。僕は何だかファッションの本質というものがわかった気がした。僕は別に尻を見せてもよかったのだ。しかし時代がゆるさないのであえて尻を洋服で隠している。彼は尻がぷりぷりしているから隠したい。けれども実際は洋服では隠れぬほどぷりぷりしているため僕に無視をされた。尻を見せてもいいと思っている僕と、尻を見せたくない彼、名前を尻本ぷりおとしよう、尻本は尻がぷりぷりしているため、僕を批判したのだな。けれど僕は尻がぴしっとしているため彼の批判に耳を貸さなかった。尻分かれである。僕はすっきりした。ぷりおに対する気持ちがすっきりした。むしろ今度ぷりおと会ったら優しくしてやるかな、などと思いちょっと尻を突き出してぷりぷりさせてみたのであるが何か様にならないような気がして、思い切って全裸になって尻をぷりぷりさせていたら案外寒く、少し風邪をひいたのである。やはり人間は服を着た方がいい。かしこ。
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by hasumaro | 2006-05-10 17:16 | エッセイ
うどん食って帰ってきた男
僕は旅に出ようと思う。しかしやはりやめた。だけど旅がしたい。でも行けない。行きてぇ。行けねぇ。行く。行かん。いやん。ばかん。あはん。ぬふん。
このような自問自答を休日中繰り返して休日を終えようとしているというのはなんたる情けない有様であろうか。というのも、旅をしたいが旅ができんせいであり、そもそもなぜに旅に出たいと思ったかというとこれ、実に漠然とした思い、願望であって、旅というのはただ気まぐれに、気の向くままに風に身を任せてふらふら歩き進むことで、決して「温泉に行こ」「墓参りに行こ」「穴掘りに行こ」「ニュークラに行こ」というような目的があってはいかんと僕は思っている。僕はそうしたあての無い旅というのをやりたいのだ。しかしやれんのである。なぜかというと、そうして気の向くままに旅をするということはまず、仕事を辞めんと駄目である。せっかく旅に出ても翌日仕事の場合はその日のうちに帰宅せねばならず、そうなると旅が成立しないのだ。「だったら仕事やめろぼけ」というような罵声が果てから聞こえなくも無いが、旅のために仕事を辞めると、旅の途中で身銭を使い切り、旅先でホテルなどにも宿泊できなくなるし、飯も食えなくなる。何かと最近物騒で、通り魔とかも多いことから野宿は危険だし、まだ死にたくも無い。だから安全の確保及び食料の確保は旅にとって重要と言えるわけで、しかしこれらの重要事項を確保する為にはお金がかかる。だから仕事を辞められないのである。そしたら旅に出れんのである。実にややこしいことである。
このような矛盾というのはこれ、出口がない。尻の穴がない。結論というのが出ないのである。
これを世間では便秘という。便秘になると肥える。これを世間ではでぶという。「でもさ、だって旅したいんだもの」なんて口を尖らせてむくれてみても意味は無く、すべてに諦めて泥酔し、翌朝には重たい頭を抱えて労働に向かうのが現実である。しかしこのような現実がむしろ「旅に出たい」という夢、思いを加速させるのであり、つまり実現が難しいからこそ夢というものは巨大に膨らみ、しつこく気持ちをむずむずさせるのである。このようなむずむずした気持ちというのは今度、現実に悪影響を及ぼす。旅に出たいがあまりに仕事に身が入らなくなるのだ。だからこのような社員、平たく言えば僕のような男に対しては、会社は一度無制限に休日を与え、「旅に出てきなさい」と指示をし、「ぬほ」っと微笑んで僕は旅に出る、そうして夢が叶った僕はきっと旅から帰宅すると気持ちのむずむずがとれ、仕事に集中、没頭できる。そうするときっと会社の利益も膨れ上がって、会社も潤い僕も出世する、両者にとって非常に良いことだと思う。しかし夢を実現させたからといって僕が仕事にやる気を出す保障はどこにもない、とたぶん会社は思っているに違いなく、未だ無制限の休日は与えられていない。実に口惜しいことこの上ないが、そもそも「旅をしたいから休みくれ」というような男は出世できる見込みが薄いような気がする。このようなあらゆる問題点が解決されぬせいで僕は未だ旅に出れず、仕事にも集中できぬのである。だから会社の利益も少なく、これは僕と会社、両者にとって不幸なことである。
僕は思う。こんな不幸なことではいかん。いやん。だからみんなで一斉に旅に出ようぜ、と。しかし冷静にレンコンなどを齧りながら考えると、例えば国民みんなで旅に出ると、その国は破綻するだろう。みんな旅のために無職になり、旅先で無銭になる。金があったところでホテルの経営者や食堂の女将なども旅に出ているため宿泊も出来ず飯も食えない。つまり金いうものの価値がなくなるのだ。貨幣価値を失うということはその国の存在を失ったということになる。金の無い国は何も買えんし、国民が旅に出ているため何も作れんし売れん。他国にとってはそんな国とは国交もいらんくなるし、地球規模で無視をされ、孤独になり、淋しくなり、号泣するしかなくなるのである。
こういうことを考えると旅というものは良くないことなのかしらん?などと思う人もいるかも知らんが、実際、別に悪いことではないので決して旅人を差別したりレイプしたりしちゃいかんと思う。しかしともすれば国が破綻するくらいのリスクを背負っているため、慎重に旅をした方がいいといえるだろう。ここでひとつ提案したいのが、日帰りの旅、である。休日に日帰りで旅をするのである。そう思い立った僕は旅に出た。気まぐれに、気の向くままに、そよ風に吹かれながら自由に僕は歩いたのだ。しかしこの日は風が強く、両目にゴミが入る。僕はコンタクトレンズを装着している為なまら目が痛い。そこで思いついたのが車の旅、平たく言うとドライブである。僕は肉体をひるがえして自宅に戻り、駐車場に向かってスキップしながら車に乗り込んだ。そしてまた、気の向くままに車を走らせたのだが、ここである重要な事実に悟った。というのは僕は方向音痴であったのだ。方向音痴ということは知らない場所にいくと自宅に戻って来れなくなる可能性がある。そのような可能性がある以上、必然とドライブコースが限られる。つまり、近所をドライブすることになるのだ。近所ということは見慣れた場所であることから必然と新鮮さがない。新鮮さがないということは旅をしている、という気分になれない。しかし遠くに行って帰って来れなくなったら明日仕事に行けない。仕事に行けないということは職場を失う可能性が出てくる。職を失うと無銭になる。無銭になると飯が食えん。飯が食えんということは餓死する可能性があるということになって、餓死はしたくないので僕は飯を食いたいと思う。そう思って僕は近所のうどん屋に向かった。天ぷらうどんを食った。カツオだしのきいたお汁であった。美味かった。美味かったのでおかわりをした。おかわりをしたら腹が一杯になって体を動かすのが面倒臭くなった。同時に旅を続けるのも面倒臭くなって、僕は店を出ると自宅に向かった。帰りの車中、1960年代くらいに流行ったジェリー藤尾の「遠くへ行きたい」という唄を泣きながら熱唱したのである。

しらない街を 旅してみたい
どこか遠くへ 行きたい

知った道しか 旅にならない
ちっとも遠くへ 行けねぇ

近所の道を 旅してみたい
うどんを食って 帰ってきたい

などと歌詞を少しアレンジして。かしこ。
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by hasumaro | 2006-05-07 19:56 | エッセイ
昔の話ばっかする奴
昔話をすると無意識にホラが混ざる。こういう男には気をつけた方がいい。将来ランパブやニュークラなどで若いホステスに年齢を偽ったりするのである。そうしてなんとか情事に至れぬものかと切ない努力をするのである。そして失敗して、その失敗した事実から目を背けるために芋焼酎などを大量に飲酒し、やがては肝硬変になって早死にするのである。可哀相な男である。それは僕である。だから僕はもうホラは吹かぬと決めた。下心は屁と一緒に放出した。ナンプラーのような匂いがした。つーん。
写真というものがある。写真というのは写した時点でまるごと事実である。顔は嘘をつけない。僕はそもそも写真に写るという行為が実に苦手であって、こうした性癖が因果となってニュークラでホラを吹く羽目になったのかも知れぬわけで、だから今後は率先して写真に写ったろうと決意しているのだ。ピースとかしたり、尻を出したり、面白くないのに笑ったりして無理矢理写真に収まろうと心に誓ったのだ。
こんな僕にも数は少ないが昔写した写真というものがあって、先日母屋に帰宅した際に退屈であごが外れそうになり、仕方ないので写真などを眺めていた。そこには実に浅ましい僕の姿があって、しかし同時にその浅ましさというのが何だかセンチメンタリズムに思えた。というのは、懐かしさだけではなく、大人になった現在だと色々浮世の実態を学んだりして「こんなことやっても今ならうけないな」「むしろ同情されそうだな」「笑ってもらえた後にホッとして涙ぐみそうだな」など、色々と計算というのをやってしまい、揚句にはその計算してしまうこと自体に忸怩たる思いを抱いたりして、色々と考えることがもう面倒臭くなってしまうのだけれども、しかし、昔の僕の姿にはそうした計算というものがなく、主観、というか勢い、気合い、という類の根拠の無い自信のようなものが全面に満ち溢れており、しかし悲しいことにそのいずれもが失敗しているのである。ある意味恐いもの知らずともいえなくも無いが、同時に快楽しか追求できぬ若僧がルンルン気分で突撃して敗北したような姿ともいえる。
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1993年 晩秋 


人間というものは愚かなもので、常に流行というものに翻弄され、新しかったはずのものをすぐに古くする。僕はもともと物を大切にする方だし、昔購入したジーパンも今穿いたらピチピチのぱつぱつになって、不意に猥褻な感じになってしまうのだがしかし捨てられずにいる。だから流行だの何だのっても、僕の魂が大切に保管したものには世間や社会などが入る余地など無い。情というものを僕は信じている男である。そらホラも吹きました。恥もかきました。でも、僕はそういう人間の可能性ってやつを信じている男なのである。だから、このような姿を晒していたのも、当時はビジュアルバンドってのが流行っていたからであって、そこに僕は共鳴したからであって、決して暴走族に入れなかったから違う形で目立ってやる、と思ったからではないのであり、これはチンドン屋ではなく、列記としたバンドのスタイルを具現化したものであって、すなわち、音楽のために行った行為で、決して親不孝を実行したのではありませんので誤解しないように謹んでお願い申し上げます。敬具
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by hasumaro | 2006-05-02 12:23 | エッセイ



爆発する愛と欲の言葉達
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