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師走の鬼六
師走。それは人間の精神及び肉体を残酷めいた快楽的手段で責めさいなむ社会的なレイプである。
そら一年間労働をしてきました。ずっと働いておりました。しかしなんだい?この仕打ちは。ようやく過酷な一年の締めくくりだというのに、元来締めくくりというのは「いやぁ、今年もお疲れさん。どうだい?一杯やらんかえ」などと同僚もしくは友人あるいは隣人又は恋人などと一年間労働し続けてきたことに対する労いの意味を込めて焼酎あるいは日本酒もしくはウォッカ又はスコッチなどを酌み交わすことによって疲れきった心に束の間の安堵を与え、そうすることによって「今年もよく働いた。来年もがんばろかしらん」という気持ちになることが精神レベルの締めくくりになるのであるのだがしかし、現実というやつは全く正反対であり、わざと真逆であり、さんざん忙しく労働し続けたのにも関わらずこの年末になってその忙しさにさらなる拍車がかかって、僕などはもう虫のようにせせこましく動き回り、もはや精神及び肉体がこの世のものではなく、あの世のものへと成り果て、昼夜問わず走馬灯を目撃し、精神が益々荒れ果て、気持ちが気持ちを見失い、狂気めいた感情を覚えたりするのである。
師走になると普段おかわりばかりしているでぶや廃人のごとく放心していた無職者までもが一丁前に忙しく装い、スーパーマーケットの正月用に設えたワゴンに積み重なる鏡餅を見詰め、「いやぁ、最近の鏡餅ってのは偽物ばかりでどうも風情がなくていかん。やっぱほら、俺って日本人だから、形式だけではなく本質がないと駄目だと思う。餅屋に行こう」などと生意気な口をききやがるのであるから僕の心は、あるいは魂は暗殺者のように冷え切るのである。つらん。
そうして僕は鏡餅の前で群集から疎外されるのである。人間というのは一度疎外感を抱くと気持ちがいじけるものであり「ああいいよ、いいですよ。僕は絶対如何なる場合においても鏡餅を購入してやらん。頼まれても土下座されても哀願されても買ってやらねぇ」という卑屈な気持ちになってさらに自らに孤独感を自覚させるような、あるいは植え付けるような、もしくは自身を痛みつけるような、又は刻み込むような、心の奥底にある種のマゾヒスティックな感情が芽生えるのであるから実に厄介な男である。いやん。
そしてマゾの僕は例年通り年越しに酢コンブを齧る羽目になり、口の中が実に磯臭いまま新年を迎えるのである。実に不本意な口臭である。でも一方で「本当は少し淋しいの。もっと年末と正月をエンジョイしたいの。だって人間だもの」という、相田みつをめいた心の悲鳴に、実は毎年こっそり気づいていた僕は、とうとう昨年、ちゃっかり鏡餅を購入したのである。しかし、つい先日気づいたのだが、その鏡餅が未だ冷蔵庫の中で死んだように放置されているのであるからとんだ無精者の極みである。ついでにいえば昨年調子こいて買った盆菓子さえもが今では埃に塗れた姿でとんだ罰当たりなオブジェに成り果てているのだから僕という男は重ね重ね無精であり、いつかきっと天罰が下るのではないかしらん、などと少しびびっている有様である。ひゃあ。
そもそも僕は餅など食わぬのだ。どちらかといえばゆでたまごの次に嫌いな食い物である。そんな嫌いな餅を買わねば成らぬような気持ちにさせられる、この師走の異常な空気感、あるいはプレッシャーというものの方が問題であり、こうして人間の精神を異常な方角へと誘う師走という異常事態を解明し改善しないと、いつかこの世はとんでもない方向をブレーキも踏まずに突き進み、小便もしないまま小便臭い道路の上を便所の存在さえをも無視をして、挙句大便を漏らすような世界になるのではないか、と僕はこの世を憂えているのである。このように考えてみると、このようなことを考えている時点で実に暇な男であるが、しかしここはあえてこのようなことを考えてみると、どうだろ、師走になると犯罪が増えるような気がするのである。普段泥棒や詐欺などをして食ってる連中も、やはりこの師走のプレッシャーに心を翻弄され、「おいらも餅を食って年を越したい」などと普段他人の夢を奪うことによって生計を立てているくせにちゃっかり夢を見て、餅を買うために慌てて犯罪を行うのである。一方で不運ののちに貧窮に喘ぐ者には当然同情するが、元来労働意欲が希薄なことによって犯罪者に成り下がったであろう者までもが「このままじゃ年を越せん」なんつって一丁前に餅を食おうとすることが実に問題であり、そもそもこうした気持ちを抱くということは、人間ちゅうものがいかに一年間の締めくくりを、あるいはエンディングをハッピーエンドで迎えたい、というささやかな願望を抱く生き物であるのかを物語っているのであり、そのささやかな願望をさらに増幅させ、必要以上に煽り、そうして叶えられぬ無念の思いだけを増長させることこそが、沢尻エリカ調に言うと師走がもたらす諸悪の根源であると僕は思うのであり、だから犯罪に手を染めてまでも餅を食いたがるくらいにいわば追い詰められるのである。人間ちゅうものは、否、特に日本人ちゅうのは滅びの美学ちゅうのを持つ民族性があり、悲劇的なエンディングを望む傾向が強いように思われる。しかしこれは実際、現実世界では決して実現して欲しくない、ある種の「夢」の形であり、つまり日本人というやつは実際と真逆の姿を思い描くことを「夢」とする、と言えるのである。もしかすると師走というのは日本人の潜在的な夢の終着点として、最もエンディングにふさわしい舞台として用意したものなのかもしらん。みんなエンディングくらいは舞台の上で美しく終えたいもので、でぶも無職も詐欺師も大慌てで舞台目掛けてよじ登るのである。だから毎年舞台の上はミシミシ軋んで、今ではもはや床が抜けそうである。しかも年末になると忘年会という宴席が増え、人間ちゅうものは酒を呑むと必ず肴を欲しがる生き物で、場合によっては酒肴を摘んだ果てに締めの一品、なんつってラーメンやら寿司やら豆腐やらを食らう者もいるほどで、だから師走には肥満が増える。肥満した連中が肉を引きずりながら舞台によじ登るものだから、舞台上の床が益々抜けそうになり、ともすれば本当に床が抜けて全員が一斉に奈落の底に落ちる可能性すらあるのである。これはある意味日本人が望む悲劇的な結末であるが、そうなれば新年なんてのは瓦礫や残骸塗れとなって、実にみすぼらしいことこの上ないだろう。ほんと。見るも無残な瓦礫の下敷きになって屍のような姿に成り果て、その姿だけをわざと照らしあげる嫌味臭い初日の出の光を浴びながら残骸の下で両手を合わせ、「今年一年も幸せでありますように」などと無残極まりない姿で毎年同じようなお祈りを捧げるのであるから実に浅ましい謹賀新年である。悲劇というのは後に残らないから美しいのであり、しかし現実は放っておいても年は明け、無残な姿だけが残るのである。アーメン。
床が抜け落ちぬよう心にゆとりを持たねばならん。近年ゆとり教育ちゅうのが批判を浴びているが、それは馬鹿な大人が手を抜いた挙句馬鹿な餓鬼どもを増やしたからであって、大人の心にゆとりがあれば餓鬼の教育にも真剣になれるのである。大人が忙しないからついつい手を抜くことを考えてしまい、あからさまに手を抜いたことがばれたらやばいと思って「ゆとり」なんちゅう抽象的な形容を用いて安いお茶を濁らせただけなのである。だから心にゆとりを持つにはやはり一年の締めくくりを大切にせんとだめ。ほんと。いちいち師走に翻弄されてうんこを我慢したような顔でじたばたするのではなく、いやぁ、一年間ご苦労だったね、イエイ。などと言ってニッカウヰスキーあるいはトリスウヰスキーもしくは鬼ころし又はドブロクなどで乾杯して労をねぎらったりせんとだめ。そうしたらきちんと尻も拭けるのである。ついでにちょっとしたジョークなんかも交えて爆笑を誘ったりして、笑顔が笑顔を呼び、笑い声が交わり、そうして精神に安堵をもたらせんとだめ。そうしたらほれ、ゆとりを持ってエンディングの舞台に上がれるし、忙しなく肉を引きずって、砂糖に群がるアリの如き有様、あるいは氷川きよしに群がるおばはんの如きにならんで済むのである。そうしたら床も抜けんし、悲劇的な結末を迎えなくてもいいし、みんなでゆとりを持って、「じゃな、2007年。2008年、カモン」なんつって笑顔で新年を迎えられるのである。あはん。
僕はゆとりある男だ。ゆとりを持って師走を過ごすのだ。まずはそうだなん、うふ。部屋を掃除したろ。あ、足りぬ物を買い足したりもせんといかん。どうしよ、掃除を先にするかあるいは買い物をするか。もしくはおならをしたい。でもおならはいつでも出来るので、そうだな、掃除をするか。しかし実際掃除機を手にするとなんだか実に面倒臭い。やっぱ買い物にするか。シャンプーとトリートメントとパンティーが足りない。これらを同時に買えるお店といえば近所にはない。少し遠くの百貨店に行けばすべて揃うが、少し遠いから面倒臭い。とりあえず屁を垂れてから考えるか。あ、そういえば一張羅をクリーニングに出さねばならん。ついでに小便もしたい。尻が痒い。足が臭い。なんだかやらねばならんことが一気に溜まってきたような気がする。むくく。どれからやればいいのかしらん。むく。どうしよ。どうしましょう。ああ、ひょっとして僕は忙しいのではないのか。そうだ、実は僕は忙しいのだ。これが師走の怨念なのか。やばい。師走の野朗が手招きしてやがる。ああ、そうだ、こういう時こそゆとりだ。なんか心にゆとりのあることをせんといかん。そうだ、とりあえずジョークを言おう。僕はジョークを言ってやる。
「師走なのでそろそろ失礼しわす」
かしこ
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by hasumaro | 2007-12-26 16:55 | エッセイ
ぽんぽちの中心で愛が肥える
餓鬼の頃、最高のご馳走といえば近所のスーパーの脇にあった貧相な佇まいのやきとり屋のやせ細った親父、今思えばムンクの叫びに酷似したその親父が焼くぽんぽちであった。
ぽんぽちというのはどこの部位の肉だか知らんが、とにかく鳥の肉であり、実に脂っぽく乳臭い、二日酔いの朝などには決して口に入れたくない感じの肉なのだが、あの頃、自分は無名のメーカーのジャージやTシャツなどをぴちぴちにして着込んでいた食欲旺盛の餓鬼であり、しかし両親のビジネスが不調だったせいか普段肉や脂に塗れた食生活をしていなかったため肉に慣れていなかったのか、たまに喰らうぽんぽちの脂めいた肉感というのが実に美味く感じ、ともすればエロスめいた欲求さえ感じ、また同時に自身の身の程を知ってか知らずか、値段も実にリーズナブルだったため小遣いを入手した際にはその足でやきとり屋へ直行、まだエロビデオも観ていない純粋な両目をぱちぱちさせながら些か興奮して「親父、ぽんぽちおくれ」などと洟を垂らして啜っていたのである。
現在、すっかり大人に成り果て、ちゃっかり飲酒も覚えた僕であるが、時折図に乗って焼き鳥を食いたくなって不意に訪れたやきとり屋でぽんぽちを頼むのだがこれ、特別美味しいものではないということをこっそり悟っているのである。しかしなして頼んでしまうのかというと、なんというか郷愁めいた気持ちから懐かしさが込み上げるのである。ああ、懐かしいな、餓鬼の頃よく食ったな、なんつってとりあえず頼んでみるのであるが、しかし今では口も肉体も肥え、「ほう、これは隠し味に昆布をきかせているね。まさに日本食ですな」などと舐めた口をきいても別段許してもらえるかもしれない年齢に差し掛かってきていることもあり、今更ぽんぽちの美味さを再確認するほど僕の口は暇じゃないのである。ただ純粋にぽんぽちを懐かしみたい、という思いからぽんぽちを頼むのだが同時に、肥えた口同様かつての純粋さというのを失ったことに淋しさも覚えるのである。きゅん。
それにしても安いぽんぽちがご馳走だった餓鬼が、今では一丁前にその味覚に満足できなくなっているのだからとんだ薄情者である。童貞を損失した少年が婦女子に対してある種の軽蔑感を抱き、それがひるがえって余裕を演じるような気持ちで「おう、ぽんぽちなんて餓鬼の頃よく食ったもんだが、今思えば安っぽくて食ってられねぇぜ」なんつって今では粋がっているのであるのだから重ね重ね薄情者である。しかしその実、心の中では淋しさを抱いているのだから大人というやつは実に複雑な葛藤を抱えてぽんぽちを食わねばならぬ、面倒臭い生き物なのである。そうして大人というのは年齢を刻むたびに思い出を積み重ね、焼き鳥屋でナイーブになるのである。くしゅん。
大人。アダルト。成人。ロスト・チェリー。大人というやつはあらゆる経験を重ね、そうして理解し、しかし理解できぬことでひたすら悩み、しかしその悩みを酒や快楽で解消する、だいたいこのようなのを大まかに大人というのだが、大人というのはとにかく論理から戯言まで幅広く聞いたり聞き流したりしてきたせいで場合によっては皮肉っぽく成り果て、嫌味っぽく成り下がるものなのである。例えばギャグにおいてもそうそう素直に純朴に笑えなかったりするのである。
例えば「羊が交差点に差し掛かった時に言った言葉が、ひぃ、辻。なんつって。ぎゃひゃひゃひゃ」くらいのことを言わねばならぬのが大人である。ちなみにこのギャグはきっと大半の諸君が笑わぬであろうことを予測した上であえて言ったのであるから諸君が笑わなくたって別段傷つかないのである。しかし餓鬼というのはもう実に直情的というか、婦女子の肉体の部位における形容詞をそのまま言い放つことが面白かったり、そして婦女子が「いやん、ばかん、やめて、よして」などと嫌がる素振りを見るにつけ、さらなる欲望の高みへと登りつめるのである。平たくいえば「おっぱい」とか言ってぎゃひゃひゃひゃ笑えるのが男子児童の特権であり、しかしこれを大人になってから言うと社会的信用が失墜し、世間の評価も「はすまろは猥褻だ」「知性が無い」「理性も無い」「変態だ」「逮捕した方がいい」「通報しよう」というような散々たるものになって、挙句職を失い、愛も恋も失い、身内に勘当され、社会を憎むようになって犯罪を犯し、最後は牢獄に入れられ「ああ、おっぱいなんて言わなきゃよかった」などと遅すぎる後悔を永久に抱くことになりかねないのである。実に愚かなカタルシスである。そうならないようにやはり大人というのはきちんと「乳房」と言うのが正しいのであり、そうした正しい表現を学ばなければならない。例えば乳房と言うのがなんだか堅苦しい、あるいは官僚的だな、と思う人は「陶磁器のような艶のある、純白の緩やかな曲線が描かれたその先端に、桃色の突起物が佇む。それはまるで陸から離れた秘密の孤島のように静かな波の上で美しくわなないている」などと少し文学的な表現にしてみたりすると個人的には実に面白いのだが、しかしギャグというのは個々の感受性によって評価が多様に変化するのであって、一概に「正しいギャグ」というのを特定するのは難しく、しかしきちんと乳房を学ぶことによってあらゆるギャグの表現を得られることは間違いなく、同時にセンスも磨かれるはずであり、だから逆にいうといまだに「おっぱい」なんつっている大人は軽蔑されるのであって、大人こそギャグに対して知性や理性というものを特に強く意識しなければならないのである。これらを意識した上でおもろいギャグを発信出来る者こそが本物の大人と言えるのであり、だから大人というのは餓鬼どもの短絡的なギャグに対して安易に笑ってはいけないのである。ぼいん。
しかしどうだろ。どうしたことだろ。昨今の、例えばテレビジョンなどから発信されるギャグを拝見すると、そのほとんどが実に面白くない。ギャグレベルが著しく低下しているように見受けられるのである。何というか、大人の方が餓鬼どもに媚を売ったようなギャグが多いように感ずるのである。これは大人の立場からいえば実に無念であり、例えば僕にとってぽんぽちは思い出だが、これが今でもぽんぽちばかり食っているようでは駄目だと思っているのである。なぜなら大人がぽんぽちばかりを食うのであれば必然的に我が国から高級レストランというのがなくなり、三ツ星ホテルなども消え失せるであろう。そうなると街には安い居酒屋みたいなのばかりが溢れかえり、これは同時にアパレル業界にも影響を与え、我が国からエルメスやヴィトンやディオールなどが撤退し、最後には大人どもが無名のメーカーのジャージをぴちぴちしながら着なくてはならなくなるのである。せっかく今まで頑張って労働してきて、「これからやっと贅沢できるわ」などとささやかな夢を抱いてきたおっさんやおばはんの夢までをも奪うのである。ようやく激動の時代を乗り越え、多少なりとも裕福になったおっさんやおばはんが、餓鬼の頃さんざん着ていたあのジャージに、またしても今一度袖を通さねばならぬこの無念を、国民どもは理解しなくてはならないのだ。だから僕は思う。大人はギャグのセンスを磨かねばならない。そしていつの世も餓鬼どもが大人のギャグに憧れを抱くようにせんといかんのだ。確かにぽんぽちは懐かしい。しかしその懐かしさに求愛するばかりではなく、潔く思い出に変えねばならぬのだ。懐かしさというのはかつて得た喜びと、過ぎ去った後の淋しさで完成するのである。そのセンチメンタリズムが人を大人へと成長させるのである。そう、だから僕は今一度ギャグを言う。言ってやる。
「ばあさん、我が家の縁側はよくお掃除が行き届いているせいか、やけにつるつるしているあまりに滑って座ることもできんよ」
「じいさん、それはあんたに歯がないからだよ」
「歯がないと滑るのかね?」
「だってじいさん、それはヒラメのエンガワだもの」
笑え。
かしこ
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by hasumaro | 2007-12-18 16:26 | エッセイ
男のおでん心
冬である。雪である。
北海道というやつは冬になるといちいち雪が降りやがり、そして押し付けがましく気温が下がり、尚且つわざと氷柱が垂れ、仕舞いにこの世の仇のように積雪に覆われるのである。
人間が暮らす条件としてまず、冷静であればわざわざ死ぬ思いをしてまで北海道という土地を選ばなかったはずであろう、と僕は思うのであるがしかしご先祖の時代から北海道に住み着いた我が伊藤家というのはその冷静さを失うくらいの様々な時代背景に翻弄され、果てには感情的になって「もういい、俺はあえてクソ寒い北海道に住んでやる馬鹿野朗」などと捨て台詞を吐き捨て、それが現在末代にあたる僕にまでその怨念が纏わり付いて責め苛むのである、などと少々ネガティヴなことを考えてしまうくらい北海道の冬というのは圧倒的に寒いのである。
寒さというのは簡単に人を殺す。中学生時分、僕は行き倒れた酔っ払いのおっさんの死体を目撃したことがある。深く降り積もった真っ白な雪の上にめり込んだその死体は、今でも鮮明に眼球の裏に張り付いているのである。それがトラウマとなって、僕は冬になると部屋に篭って飲酒するようになったのだ。部屋の中にさえいれば絶対死なない、調子こいてすすきのなどで酔っ払うと、薄汚い飲食店の脇のポリバケツなどが散乱した裏道で死体となって発見されるかもしらん、などという強迫観念が僕の尻を突いて、尻を隠しながら自室で胡坐をかいて安いトリスウイスキーなどを舐める羽目になったのであるからなんという過酷な土地なのだろうと改めて思い知らされるのである。
そんでも人間ちゅうやつは一日中、あるいは一週間中、もしくは一ヶ月中部屋に篭ると気持ちが陰気になり、心が沈んでくるものである。心が沈むと浮上するのになかなか時間がかかるものである。そこで心に外圧的な刺激を与えるために外出を目論むのである。しかし遠出すると寒さで死ぬかもしらんのであって、手頃な近場を選択するのである。僕の自宅の近所となるとこれ、例えばラルズストアというショッピングセンターがあるが、僕のような世の中の暗部にスポットを当てつつ実生活は平穏無事に過ごしたい、という中途半端な社会人がラルズに行って刺身やらコロッケやらを見詰めてもてんでつまらないのは目に見えている。もっとなんというか、大衆的なファッションビルの中でこっそり商う特殊な感じのセレクトショップや、下町風情の人情的な佇まいの商店街の中で商売根性を表に現さずひっそり商うバーなど、つまり安全圏内に潜むスリルを味わいたいな、と願望するのであるがそんなものはめったに無いに決まっており、そこで妥協の上に妥協を重ね、挙句諦め果てた結果、セブンイレブンを選択することになるのである。
僕はもともとコンビニエンスストアちゅうのが好きではない。何でも売ってる、っていう先入観はあるがそれが具体的に便利だなこれ、などと認識したことはないのである。漫画ちゅうのもあまり読まぬし、スナック菓子ちゅうのもあまり食わぬし、札幌市の水道水は都市名水と言われるほど美味しい、という話を昔聞いて以来、飲み物はもっぱら水道水である。すなわち普段コンビニエンスストアに出向く理由というのが無いのであり、学生時分、理由も無くコンビニエンスストアの前にたむろしているような連中というのも好きではなかったし、実際友人に付き添ってたむろした時も、僕らを拒むようにそそくさと避けて通る婦人や少年少女が多数おり、そのように避けられたり拒まれることがむしろアイデンティティになる、というような自己顕示欲、過剰な自意識を持ち合わす連中に対して、ひねくれることで世間に求愛するような惨めさを覚え、以来僕はなるべくコンビニエンスに立ち寄らず、あえてビデオレンタル店などに立ち寄ってエロビデオなどを借りていたのだから器が知れるが、とにかくこれらあらゆる複合的な理由によって僕はコンビニエンスというのが好きではないのであるがしかし、様々な諸条件によってセブンイレブンを選択せざるを得ない人生の奥深さ、浅ましさに悲哀感さえ覚える始末である。
そうして尻を隠しながらセブンイレブンに行くのであるが、ここで具体的に、部屋に篭ったことによって沈んだ心を浮上させるような画期的な出会いがあるかというと、せいぜいおでんくらいが限界なのである。おでんちゅうのはそれほど好きな食い物ではないがしかし、北海道の人間ちゅうのは冬になるといちいち暖かいものを食いたくなる生き物で、例えば鍋などは冬の主食といっても過言ではない。もともと最先端を取り入れつつ自分本流を保持する、平たくいうとオリジナリティを求める趣向を持ち合わせる僕のような男は、すんなり鍋を食うことに言い知れぬためらいを抱くもので、そんなら間を取っておでんにしたろ、などとどこの間かは不明だがどっかの間を取ってとりあえずおでんを買ったろかしらん、ということになるのであるが、ここで問題が発生するのである。というのはセブンイレブンのおでん売り場というのはレジスターの脇にあることが多い。つまりレジスターの前まで行って、先客がいる場合そいつの買いもんを待たねばならぬし、この真冬に待たされるほどの苦痛はないものであり、あるいは先客がいない場合であっても、僕がおでんの具を選んでいる場合に後から来た客の野朗が僕の後ろに並んで待つことになり、そうなると待っている客というのは必ず「こいつ、おでんなんて買うんじゃねぇよ、このクソ寒いのに待たねぇといけねぇじゃねぇかこのハンペン野朗」などと僕のことを心の中で罵るに決まっているのであって、赤の他人に罵られるのは嫌だな、と思う僕はすばやくおでんの具を選ばんといかん、などと心が焦り、人間ちゅうのは心が焦ると判断に誤りが発生するもので、挙句の果てには全く食いたくないちくわだのこんにゃくばかりを選んでしまう羽目になり、メインの牛すじやらハンペンなどを忘れてしまったこと、あるいは遠慮して頼めなかったことなど、そういう自身の不甲斐なさに打ちひしがれながら自室に帰り、具の少ないおでんを食いながらトリスウイスキーなどを呑みつつ、人間ちゅうのはなにか心に不安や後悔があると酒の量が増えるもので、ああ、やっぱりハンペンが食いたかった、どうして僕はちくわばっかし頼んでしまったのだろう、などと自責の念に駆られ、これを打ち消すために益々酒の量が増量され、挙句死なぬために篭ったはずの自室で死ぬくらいの酒を呑んでしまうのだからもはや因果応報である。困ったアル中である。
沈んだ心を浮上させるためにおでんを買ったはずが、ひるがえってさらに心を沈ませ奈落の底へと打ち落とす羽目となるのである。そもそもおでん売り場の設置場所に問題があるように思うのだが、こうした市民の訴えというものに企業側が耳を向けて改善する、というのが理想だと思うのであるが実現は難しいのが現実である。設置場所を移すのであればやはり設備投資が必要になるし、そんなお金が掛かる上に面倒臭い作業などは今一番企業が避けたい事柄であろう。市民というやつは実に非力なものだ。今後も真冬の空の下、尻をよちよちさせながらコンビニエンスへと出向き、そうして心を焦らせながら、遠慮しながら、判断を誤りながら、こんにゃくやら豆腐やらを食うのである。場合によっては店員自体が「こいつ、おでんなんて頼みやがって、面倒くせぇじゃねぇか白滝野朗」などと思うようにまで進化し、市民は益々「あ、これ、あ、ああ、カマボコでいいです」などと焦燥しながら益々退化してゆくのである。全く嫌な世の中だ。せちがらく塩臭い世の中だ。そもそも何がおでんだ馬鹿野朗。沈んだ心を浮上させるために外圧的な刺激を求めるなんて発想がいけないのだ。自分でなんとかやらんと駄目なのだ。うん。などと、僕はもはや自己鍛錬しか残されていないことに悟るのである。これからの市民はおでんを自分で拵えないといかん、と思い立った僕は尻の穴をあえて開き、そうしてキッチンへとダッシュするととりあえず冷蔵庫の扉を手動で開け、その中に混在するシュウマイやら葱やら赤ウインナーやらぶどうやらを取り出し鍋の中へと放り込んだのである。そして「いひひ」と笑い声を発しながら都市名水と言われる札幌の水道水を一気に流し込み、それからガスコンロのツマミをひねってを点火させたのである。ぶわっ、と火があがりぐつぐつと煮えたぎってきた頃、僕の心の中にある不安が浮上したのである。酒だ。酒はあるか。僕は開ききった尻をさらに広げ、ばたばたと虫のような動きで部屋中を探りまくったのだが酒が見当たらん。トリス。トリスの野朗はどこに行きやがった。居て欲しい時にいない、居なくていい時に居る、そんなわがままな恋愛感情のような思いを爆発させながらトリスを探す僕の尻はすでに中身が溢れるくらいに広がりきっており、少し痛みさえ感じていた。おお、トリス、頼むから出てきてくれよ、いつも一緒にいようと言ったじゃないか、などともはや恋人に振られる時の男の感情を激しく爆発させながら、くそ、居ないのならいいよ、新しいトリスを見つけるよっ、などと振られた後に抱く男の見栄をさらに激しく爆発させ、僕は自室を飛び出て、そしてラルズに行くかセブンイレブンに行くか、あ、でもセブンイレブンに行ったらおでんが売っていやがるからおでんを自作した意味が無くなるし、売っているおでんの方がきっと明らかに美味しそうだから自作したこと自体を後悔するかもしらん、という、不安と焦りとジェラシーに苛まれながら、別れた後でも愛するかつての恋人を思う未練がましい男の感情を心の奥に潜ませつつ、セブンイレブンよりもやや近い、ラルズストアへと徒歩で向かったのである。かしこ
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by hasumaro | 2007-12-07 12:35 | エッセイ



爆発する愛と欲の言葉達
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