<   2010年 03月 ( 3 )   > この月の画像一覧
アナーキー・イン・ザ・納税
先のオリンピックで、国母くんという青年が腰パンというファッションに身を投じて日本国民から「けしからん」と言われて話題になっていた。
腰パンというと僕が連想するのは「こしあん」である。こしあんをパンに包んだ、所謂菓子パンのようなものを想像するのだが、もちろんこれとは違って、国母くんのやったファッションというのはつまり臀部が露わになるほどスラックスをずり下げ、限りなくだらしなく、外国語で表現するとルーズに穿きこなす、こなしているのかどうかわからんが、現代の価値観というものからいうとたぶんこなしており、さらには臀部がはみ出ているということはその逆側、所謂陰毛陰茎にいたる箇所まではみ出ている恐れもあり、これは「けしからん」というよりはすでに猥褻であり、僕のような大人がやると逮捕される恐れがあることからあまり図に乗って真似をしないほうが良いと思われるのである。
若者のファッションというやつは大抵大人から嫌われるものである。これがオリンピックなんつって国の代表として臀部をはみ出さすとさらにその批判は強まるだろう。日の丸付けて尻を出しているんだから当然ともいえるが、問題はなぜに国母くんが尻を出したか、ということであるが、実際理由というのは簡単で、ただ目立ちたかったのだろう。あるいは国の代表らしくキチンとしていないところが俺のアイデンティティ、というような過剰な自意識が彼を独走させたのだと思ふ。そんで批判されて謝ることになったのだが、「何だよ、服くれぇでうるせぇな馬鹿野朗」などと思い、その思いが尻以上に露わとなったためさらに批判を受ける羽目になったのであるから全くもって散々である。
僕には国母くんの言いたいことがわかる。その気持ちもわかる。きっと「何が国の代表だ馬鹿野朗。俺はオリンピックなんてどうでもいいんだよ」ということを言いたいのに違いなく、「俺は周囲の良い子ちゃんぶってる奴らとは違って、本当の自分、素のままの自分を貫いているんだよ」という気持ちの表れなのである。19歳の青年らしい、思春期の主張である。僕が19歳の頃はどうだったかしらん?振り返るだけでもおぞましく、まさに国母的、いや国母並、いやそれ以上に屈折した思春期を生きていた。振り返ると羞恥心というものが毛穴中から溢れ出て、肉体すべてが痒くなり、不意に思い起こして寝床から飛び起きるほどの悪夢に似た過去の苦い記憶になっている。例えば好みの婦女子に好んでいることを悟られたくないあまりに示した真逆の態度などはもう筆舌に絶するくらいおぞましい姿として脳味噌の脇に張り付いており、その時の心の内などは一言でいうと「あほ」である。本当は大好きなのに「お前なんて眼中にないぜ。なぜならこの世の女は一人じゃねぇからな」などと嘯いてはみたが、その後自分が一人きりになってしまうことなど想像もせずにさらに格好つけて、挙句目当ての婦女子が別の男と恋仲になっているのを知ると今度その婦女子を逆恨みし、「あんな女、俺ぁもともと興味ないからよ」なんて吐き捨ててはみたものの、自室で、ともすれば号泣する羽目になるのだからあほを通り過ぎてとんだ屁垂れ野朗である。
人間ちゅう生き物は思春期の生き方次第で決まる。僕のように過去の災いが今の報いとなる人間は思春期をやや失敗がちに生きてしまったからで、若き日の恥の後遺症というものは実に長い治療が必要となる。そもそも「格好をつけたい」という思いから失敗をしたわけで、その思いとはまさしく目立ちたかったからに他ならぬ。対象者に対するアッピールとして格好つけてみたが、その対象者が他と恋仲になってしまうと僕のアッピールは目的と目標を失い、ただの恥に成り果てる。国母くんも本当はオリンピックに選ばれることを望んでいたくせに、しかし格好をつけたい、目立ちたい、という思いからスラックスをずり下げて臀部を露わにしたのだとすると、結果別の意味で目立ってしまったということになり、僕と同じ失敗を国レベルでやってしまったという意味では僕以上の恥を得たに違いない。しかし彼はまだ思春期の最中だろう。恥を恥と認めず、まだ頑張る年齢である。「別に、これからも自分のスタイルを貫くだけっす」などといって尻を出すのである。たぶん。
格好をつけた上にいかに目立つことに成功するか、ということを考えた場合、これはまず規則というものを守らない、ということが挙げられる。規則を守ると多くの人と同じになってしまうので、例えば僕の学生の頃の場合は制服を改造してみたりする。そうして「俺は規則なんて関係ねぇ。そんなものは大人が勝手に作ったもので、俺は自由だ」というような意味の発言を繰り返し行うのだ。そうするとおのずと目立ち、周囲の者にあらゆる意味で注目されるようになるのだ。しかし一度目立つことに成功すると今度、決して弱音を吐けぬようになる。なぜなら改造した制服を着ているくせに喧嘩を売られて逃げたりなどしたら格好が悪いからである。だから喧嘩を買わねばならなく、しかもこの場合、自分と同じように制服を改造している者が相手だったら敗北も視野に入れられる、いわば余裕が出来るが、しかし一方で自分とはまったく別の、制服など改造せずに規則を守っている者が相手の場合、絶対に負けられぬプレッシャーに襲われるのである。この場合敗北すると自分の学生生活の命取りになるのだ。「あいつは制服を改造しているくせに喧嘩弱いぜ」などと噂が流れたらもう、生き恥である。だから多少卑怯な手を使ってでも勝たねばならず、そもそも制服を改造するということは目立つ以上に威嚇の意味もあることから、初めから真面目な学生にびびられていないと駄目で、予め喧嘩にまで発展せぬように予防しておかないといかんのだ。ヤンキーというのも実に大変なスタイルで、苦労も多いのだ。それた分だけ話を戻すと、国母くんもきっと格好をつけた上に目立ちたくて尻を出したものの、国民に批判されて「うるせぇな」と思い、そうして終わった後もやはり「尻を出すのが俺のスタイル」などと言って頑張っているのである。大変である。
僕の場合、こうした長々とブログを書き綴るくらいの才能にしか恵まれなかったが、しかし国母くんは違う。彼は国の代表として選ばれる才能があった。「国なんて関係ねぇ」などと駄々をこねても、オリンピックが国の代表同士が争うスポーツの祭典である以上、国というものがすごく関係しているのだ。すなわち僕と国母くんの大いなる違いは、僕は学生生活の範囲で目立つこことに全力を注いだが、しかし彼の場合、国の代表の中でそれをやってもうた。たかが平民、ともすれば貧民の学生生活の一部など国民は注目しない。しかし国の代表となればヤクザでも注目する。そんないわば公の場で彼はかつての僕のようなメンタリティを露わにしてもうたの。目立った以上の批判、批難、さらには罵声の数々を浴びるのも致し方ないといえる。それでも「いちいち国家だの品格だの持ち出すなよ、国母は国母のスタイルでいいんだよ」などと庇ってくれた国民も結構いたかもしらん。しらんがそれはあてにならない。なぜなら彼らは学生と国のレベルを一緒だと思っているからである。学生というのは制服を改造した程度で、例えば国民規模で批判されるような自体にはならんではないか。せいぜいガッコのセンセとか近所のちょっとうるさいおっさんにしかられる程度である。しかしオリンピック選手ともなればそら国民規模で注目されるものであり、一億二千万も日本人がいるのなら、それはそれはあらゆる種類の批判があっても仕方のないことである。「俺たちの税金で尻出しやがって腐れガキ」などと罵声を浴びせる者も多々あるだろう。だからせめて公の場ではスラックス上げようぜ、って思うのだけれどもこれ、それをやってしまっては彼の目立ちたい、格好をつけたい、という欲望が満たされない。だったら開き直って「俺は自由だ。ズボンを下げたっていいのだ」と言ってしまうと、「ズボンを下げたいならオリンピック出るな」などと言われかねない。それはまずい。なぜならオリンピックに出場する上で目立つことが彼の存在意義だから。実に面倒臭いことこの上ないが、僕の才能というのは実はもうひとつあって、このように些細なことをこと細かく勝手に考えて仕舞いに面倒臭くなることである。そもそも国母くん自体が別段目立ちたいとも格好つけたいとも思わず、ただ臀部と局部を露わにすることが趣味の人なのかもしらんし、思春期ったって、普通に大学に通学して好きな山でつるつる滑っているだけで満足している人なのかもしらん。そういうことを不意に考えると、何だか僕が一人で妄想して、勝手に想像して、身勝手に面倒臭くなっただけで、実にあほらしい。この場合国母くんにあほらしいわけではなく、自分という男があほらしくなるのであまり考えないようにしよ。うん。
例えば僕が片田舎の分校とかにいて、生徒数もふたりとかで、先生もひとりとかだったらこれ、制服を改造しても様にならんかったろう。なにせ人が少ないので目立つことをやっても注目してくれる人がそもそもいない。ひとりやふたりのために格好つけても、むしろ格好つけること自体が格好悪く感じてしまう。そのひとりやふたりが近所の幼児とお婆さんだった場合、ますます無様である。オリンピックに出られない腰パンの若者はそこら中に無数に存在するが、オリンピックに出た腰パンは彼しかいない。そういう意味では彼は実に良く目立ったわけで、成功者である。街の中の雑踏に塗れて腰パンしたって特別な存在にはなれない。オリンピックで腰パンするから意味があるのである。何の意味かは知らん。だったらオリンピック選手が腰パンしたっていいじゃん。ということになるのか。あまりいいということにはならん気がするが、だったらそもそも19歳の頃の僕のような若者が日本に増えた方がいいと思うか、そら思わん。僕のような若者が増えて、その中からオリンピックに出場する奴が現れると必ず腰パンするからである。僕のような若者はきっと目立ちたい、格好つけたいがために、「国なんて関係ねぇ。俺は俺のスタイルを貫くぜ」などと戯言を言うに決まっているのである。こういう奴が図に乗って、本当はちょっと注目されたいという下心でむらむらしているくせに、それを悟られぬよう鼻の穴を閉じて尻の穴を開くのである。こんな奴は国の代表にしたらいかん。周囲の馬鹿が阿呆になるだけだ。自由を履き違えやがってお前ら、そんなに自由になりたいのなら無法地帯へゆけ。自由に命のやり取りをしろ。弾の下でズボンを下げろ。それかいっそ無人島に移住しろ。猿と洞穴で踊れ。だんだんむかついてきた僕はズボンを腰パンならぬ膝パンくらいにずり下げて、こしあんパンを買いに近所のパン屋のドアーを開けた途端、女性店員が悲鳴をあげたのである。かしこ。
[PR]
by hasumaro | 2010-03-16 16:13 | エッセイ
チーム蓮麿の全敗放心記
「あたしも趣味ってやつを持とう」などと慣れぬことを思い立って数年が経過したが、未だに趣味らしい趣味に有り付けぬ僕という男は何たる堕落者であろうか。
 僕が堕落するに至った致命的欠点というのは、挙げればきりがない。例えばスポーツが嫌いである。そもそも歩くことが嫌いであるから当然走ることもやらない。歩くことも走ることもやらん男がそもそもスポーツをやらんのは至極当然というか、自業自得であるので嘆くのも図々しいくらいである。さらにはそれほど食というのにも欲が薄く、一先ず胃袋に収まれば満足するくらいの豚のような味覚しか持ち合わせていないため、高級レストランテなどでディナーコースを食っても食欲や味覚においては安いホルモン焼きやらはんぺん焼きなどを食ったのと何ら変わらず満足できる男であるので、例えば食べ歩きなどをやらかしてグルメを装っても身銭が減る一方で何ひとつ得るものはないのであり、ただひたすら貧乏になるのがオチである。貧乏というのはいやだ。だから僕ははんぺんでいい。ということを妻・色子に言うと「実につまらない男だ」というような意味のことを言われかねないので言わぬが、この僕という男を客観的に評価すると「つまらない男」というのは限りなく的確だと思うのであり、どうしてつまらない男と思われるのか、これはまさしく無趣味であるからに他ならないからである。
無趣味という烙印を押された僕は、さも趣味を沢山持っている風を装う人間を心の片隅で憎悪している。リュックサックなどを背負って短い足で登山などをしやがったり、真冬の糞寒い氷点下の氷の上をスイスイ滑り踊ったりしている連中が実にむかつくー。ましてや海やら川やらにわざわざ出向いて大袈裟に「キャンプ」などと嘯いて、軍人にでもなったつもりか飯盒で生の米を一から炊いて、炊き上がるまでの間にウインナーやらソーセージやら豚やらキャベツやらを網の上で焼き上げるその手馴れた姿に、僕の劣等感がスラッシュ・メタルのような、海や川の風景に決して馴染まない激しいビートをもってうねり上がるのである。ぎゅいん。
こいつらが水辺の近くでのんきに尻を掻きながら焦げたシャウエッセンなどを齧っている間、僕は肉体という唯一の財産、資本を切り崩しながら労働をし、茶碗一杯のパールライスをようやく喰らい、こっそりおかわりしながら屁をこいて麦焼酎などを晩酌し、吉田類という酒場ライターという職業の人が酒場をうろついてレポートをする「吉田類の酒場放浪記」というテレビ番組を見て「おいらもこういう気楽な感じの職業につきたいものだな」などと呟きながら僕にとっては実に身近な感じの、その気になれば実現出来そうな夢をささやかに抱いたりし、しかし一方で「収入的にどうなのだろ?きつそうだな」などと実に現実的なことを同時に想像して、夢と現実の狭間でさらに焼酎の量がヤケクソ的な勢いを伴って増えるのであり、そもそも酒場ライターといえども文章を生業とするのであるなら執筆中は素面であるはずで、ただ毎晩酒を呑んだくれているわけではないのであって、ましてや考えたこと、感じたことを言葉で表現する才能がなけりゃそもそもライターに成れないのであり、やはり夢の実現ちゅうのは実に果てしなく厳しいのであり、僕のように安酒で酔うことが日課の男が容易く実現できる世界ではないのだ、吉田さん、ごめんなさい。などと、夢と現実に責め苛まれた挙句最後には反省さえし、しかし転がり込んだ寝床の底で「わたしは絶対に趣味など持たない」などと実に後ろ向きに決意し、益々ひがみ根性が増幅して劣等感が疾走し、次の参議院選挙に無所属で立候補したが一票も入らなかった、という実に屈辱的な悪夢を見て目覚めたりするのである。
中央の食い物、という意味の名前を名乗るフード・センターというスーパーマーケットが近所にある。徒歩3分ほどの距離であるので歩行が不得手の僕にとっても許容範囲内の場所である。僕は夕刻、毎日のようにそこに買い物に行くのだけれども、僕が訪れる時間帯にタイム・セールと名付けられた、限られた時間内に食い物を安く売る、という催しがあって、その催事場付近はもう近所の奥様たちが虫のように群がっているのである。僕は例えば買い物籠の中の食材を見られて、レジスターを担当するパートのおばはんに「お、この人は今夜ライスカレーを作るんだね」とか「この男、今夜もはんぺんかい。毎晩はんぺんを食う男は決まって三十過ぎの独身なんだよ。淋しい人生だね」などと思われるのがいやなので、ライスカレーを作る場合においても二日間に分けて食材を買いに行ったりする姑息な男である。これはライスカレー以外の料理においても同じことで、だからほぼ毎日のようにフード・センターに行く羽目になるのであるが、ここでタイム・セールがあると、何というか、男のくせにタイム・セールを狙って安い食材を買いに来る、しかも毎日。などと思われるのがちょっと恥ずかしい、というか、安いものを買うということは経済的には実に利益のあることで何ら恥ずかしがる必要はないのだけれども、その、僕の性格からして決してマッチョ・イズム的なタイプではないのだけれども、大の男がこともあろうにタイム・セールとは実にけち臭い、豪快に買い漁るべきだ、というような、古の日本男児のイメージのようなものが潜在的に刷り込まれている為、その意識が僕の邪魔をして、タイム・セールの付近をなるべく近寄らないようにし、又同時に先に書いたような理由から僕は毎日買い物に来なければならぬので、毎日タイム・セール品をチェックしているせこい男、という先入観をレジスターのおばはんやフード・センターの従業員に思われたくないためタイム・セール品の中にたとえ必要な食材がある場合においても絶対に手を出さない、と決めているのである。しかしタイム・セールにも僕にとっての利点があり、それはタイム・セール付近以外の売り場が空いている、ということである。僕はそもそも行列の出来る店に並ぶような忍耐力もなければ食に貪欲でもなく、出来ればすぐ食える、空いている店を選ぶ男であるので、空いている売り場というのは僕にとっての天国、とまでは大袈裟ではないが、極楽程度の心地よさがあるのである。ゆっくり食材を選べるし、献立を全く決めずに来た場合も売り場をうろつきながら考えるくらいの心及び時間的な余裕があるのである。心と時間の余裕というのは実は人間にとって大変重要なもので、心に余裕がないと思考が短絡的になり、話し合って済む問題に対して暴力を使ってしまったり、時間に余裕がないと慌てて車に乗り込みアクセルを全開にし、その結果ブレーキが追いつかず公共物に激突して破壊させ国あるいは地元自治体から損害に対する莫大な賠償額を請求されたりするのである。気をつけたいものである。
そうして心及び時間的余裕の中で売り場をうろつくという行為が実は最近、こっそり楽しいのである。楽しさというのは精神にゆとりや安定をもたらすもので、これも人間にとっては実に重要なものであり、日々の忙しさ、慌しさから解放される唯一のオアシスとなるのである。しかしゆとり教育というのが以前問題になっていたが、忙しさも慌しさも知らぬガキ共にいきなり最初にゆとりを教育してしまったものだからガキ共は人生の初頭でオアシスを手に入れてしまい、結果教室がオアシスになってしまって当然教師の言うことなど聞かず、洟を垂らしてチャンバラごっこしたり、えんこを漏らしてプロレスごっこに興じたりするのである。これは現代日本の疲れ切った大人たちが「せめて子供らにオアシスをプレゼントしてやろうよ」などという冷静さを失った優しさのせいであり、厳しさを忘れた身勝手な大人の責任放棄である。こんな、たかが空いた売り場にオアシスを感ずる男なんて阿呆だ、などと馬鹿にして嘲笑う者がいたらきっとそいつは人生の初頭にオアシスの幻想を与えられた甘ったれであり、人生の厳しさを知らぬまま肉体だけが大人に成った精神童貞である。セックスというのは精神的に満たされぬとエクスタシーには至れない。団鬼六風に表現すると法悦経には至れないのである。ただ射精さえ出来ればいいのなら自慰行為の方が合理的である。ということを僕は子供から大人になる過程で学んだ。情事において必要な教養である。是非身に付けたいものである。
僕は気づいた。趣味というのはオアシスである。そう、僕にとっての趣味は空いた売り場をうろつくことであり、売り場散歩、と言い換えてもいい、というかその方が言語的に響きが良い。僕はこれから「あんたの趣味は?」なんつって聞かれたら、あえて余裕を装って「そうね、売り場散歩かな?」なんて答えてやる。あ、しかしここで問題なのは「売り場散歩って一体なんなの?」などと訊ねてくる厄介な輩と出くわした場合なんて答えるか。いや、別段、フード・センターのタイム・セール付近以外の空いている食材売り場をうろつくことだよ、って答えてしまうことがいけないことってわけではないのだけれども、先にも書いたように、何というか、潜在意識の中に刷り込まれた古のイメージが僕の邪魔をするのであり、その、もうちょっと何とかならんか。散歩。いっそ散歩って言っちまうか。そうしたら何か言語的な響きがよろしくない。ちゅうかジジ臭い。ウォーキング。ううん。なんちゅうか、健康に成りたい人が好みかねない響き。僕はもうちょっと、お洒落な、アート的な、文学的な、その、言い換えればむしろ不健康的な響きを感ずるものが好みで、例えば音楽的にいうとポップスよりはロックが好みで、酒場で言うなら庭や公園などで催されるビアガーデンよりも狭い階段を下る地下のバー的な感じが好みであり、しかしここまで考えながら不意に思ったのが、そもそも「売り場散歩」っつう響き自体が実に好ましくなく思え、ダサくさえ思えてきた。世の中にはあらゆる趣味があれども、僕のこの趣味ちゅうのは明らかに新ジャンルではないのか。新たなジャンルを作ったこと自体は実に僕の虚栄心を満足させることだが、しかし肝心の名称が「売り場散歩」だったら何のことかわからぬし、売り場を外して「散歩」としたところでそもそもすでに存在するジャンルであるので新しくすらない。わからん。なんと表現すればいいのだろう。ショッピング・ウォーク。ウォーク・イン・ショップ。藪から棒に英語にすればいいってもんじゃない。「それって何?」などと訊ねてくる阿呆と出くわしたら「あ、いや、空いてる売り場をうろつくっていうか」なんて答えた途端に「あ、買い物ね」なんつって核心を突かれ、何だか口惜しい気持ちになるに違いない。どうしよ。どうしたろ。僕の趣味は何なのだろう。そもそも趣味ってもの自体がなんなんだろう。人間て一体なんなのだろう。すべてにわからなくなった僕。こういう時は気分を変える何かをやらんといかん。あ、こういう場合に趣味があればいいんでしょうけれどね、僕の趣味はまだ、名称の部分が完成していないのでね。ま、一先ず、そうだ、スポーツでもしようか、なんつって思い立ってとりあえずお気に入りのマイ・ブラシとマイ・ストーンを持ってカーリング場へ出かけたのである。というのは嘘である。かしこ。
[PR]
by hasumaro | 2010-03-10 16:44 | エッセイ
詩 その36

おれのスキップ


怒りというのはどうしようもないことばかりだ
どうしようもないから怒るのだ
どうしようもないことをどうにかする術がないのだからたちまち怒るのだ
成す術がないのだからどうしようもなく怒るしかなくなるのだ

怒りというのを口で説明すると必ず上手くいかない
でもむかつくので精一杯口で説明するけれど必ず大したことの無い感じになってしまう
本当は実に大した理由があるはずなのにそれが言葉にならない
だから例えばおれの場合、柔いソファなどを思い切り蹴り上げてみたりする

忸怩たる思いで転がった柔いソファを整頓しながら
おれはおれの才能の無さに少し絶望するのだ
おれは一度でいいから、一度きりでいいから
この怒りというものを言葉で的確に表現してみたいのだ

でもやればやるほど、ともすればおれだけが阿呆になる
言葉の足らない乳児のように、すがるママンのいない孤児に成り果てる
おれは本当は知っている、冷静になったほうがいいに決まっている
おれがおれに絶望しないたったひとつきりの術なのだ

だからおれはもう、怒りを静めるのだ
神に土下座しようと、悪魔にホラがばれようと
おれがおれであるために怒りを無視するのである
近所の洒落たカフェーに入って献立を見て悩んだりして

世間の人らはそんなおれを見て、笑顔が神様のような人ね
などと言ってくれるがどうやらおれは馬鹿にされているのか?
ちょっとむかつくがおれは反論を思いつかないので阿呆のようにまた笑う
そうしてそわそわしながら尻を閉じてワッフルをおかわりして

おれは振るい挙げきったかつての古い拳を
今じゃ疲れきって骨が痺れるほどの右腕を
決して最後まで振り下ろさないまま他人の生意気な乳児の頭を撫でるのだ
少し苦しそうに窒息しながら微笑んで

おれは最後まで何もしなかった
誰にも災いをもたらさず、最後まで穏便にごまかした
暴力を振るうこともなく、おれだけがそっと傷ついたりして
そして根拠のない笑顔を虚しくサービスした

おれの怒りはいずれ胃袋の中で処理されるだろう
あの焼きすぎたワッフルの表面の皮だけを残して中身が溶けるだろう
ひとまずソファが柔かったことに安心しながらビール
そうしてひと思いに乾杯

でも少し困った人を見てざまみろと思う浅ましいおれ
騙された気分はどうだい?などと詐欺師のように笑うおれ
きっと怒りが未練を残しているんだろうけれど
知らぬ振りして乾杯するおれ

風船がふらふらと飛んでいるじゃあないか
誰かが飛び上がって捕まえてあげないとあの少女が泣いてしまうじゃあないか
おれは歩いて近寄り、割れた後に少しジャンプ
そうしてバツの悪そうにスキップ






(2010年 散髪)
[PR]
by hasumaro | 2010-03-02 10:05 |



爆発する愛と欲の言葉達
by hasumaro
カテゴリ
全体
プロローグ
エッセイ

photo
repo

Link
tom waits
yohji yamamoto
nickey
nikorush
harakiri culture
bossa
larsen
以前の記事
2018年 02月
2017年 10月
2016年 12月
2015年 10月
2015年 07月
2015年 04月
2015年 01月
2014年 11月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 10月
2013年 07月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 10月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2011年 12月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 07月
2009年 05月
2009年 03月
2009年 02月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
検索
その他のジャンル
ファン