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心のそもそも
そもそもである。何がそもそもだというと、趣味というやつは「趣味を持とう。持ったろう」と思い立って持つものではない。趣味というやつはそもそも、そもそもである。そもそも好きなことが趣味になるわけだから、思い立って見つけるものではない。つまり好きなことがない人は必然と趣味が無い、ということになるのであり、いくら駄々をこねても駄目なのである。そもそもそういうものなのである。
ということを閃いた僕は自らの半生を反省した。半生を反省。洒落みたいで少し面白いが誰も笑わなくなってかまわない。今大事なことは半生を反省したことなのである。例えば「ああ暇だな」と思った時、これまでの僕はこんな時に一心不乱に集中及び熱中できる事柄、つまり趣味というものがあれば暇を持て余して普段食わぬ餅をついたり、普段食わぬトムヤムクンをこしらえたり、普段から呑む焼酎を昼間から呑んだり、テーブルに散乱する餅及びトムヤムクンを摘んで普段のように酔っ払ったりしなくても済んだのに。餅代とトムヤムクン代と酒代のせいで無銭になり破産手前の分際で目方だけが不用意に増えたりしなくて済んだのに。などと自分を責め苛んできたのである。そうした後悔が心に焦りを生み、その焦りが判断を誤らせ、挙句やらぬゴルフセットを月賦で購入したり、描かぬ画材を一式購入したり、吹けぬトランペットを貯蓄をおろして一括購入したりする羽目になって、仕舞いに上手くならぬゴルフと白紙のキャンバスと埃に覆われたトランペットが狭い我が家の片隅に置き去りにされ、それらを見ると心がきゅんとなるので、きゅんとならぬようにそれらをあまり見ぬように過ごしてきたのだが、そうした懸念材料が自宅に存在するとどうにもリラックス出来ぬ、心の焦りというものが益々増幅する一方であり、これではいかん。いけません。そもそも、そもそもである。上手くならぬのも描かぬのも吹かぬのも、そもそもあまり好きではないからなのだ、と気づくに至ってこれらの不要物と化したかつての借金らを一度捨ててみてはどうだろうか、すべてを捨て去ることで心を解放し、心機一転するのである。これが大事なのではないかしらん、と思う。
しかしどうだろ。かつてつるんとしていた時代、「僕も大人にならんといかん」と思い立って大事にしていたエロ本を捨てることで心機一転した。エロ本を捨てて僕は大人になっただろうか。他人よりも思春期が長かったような気がするし、そもそもエロ本がエロビデオに代わっただけのような気がする。大人になれば堂々とエロビデオを店頭でレンタルできる、ということも大人の証しではあるが、そのために僕はエロ本を捨てたわけではない。大人とは何だったんだろう。大人って何なのだろう。三十路をしばし経過した現在、このような疑問を未だに抱くということは僕の心に未だ思春期がしつこくこびり付いている証拠なのではないか。エロ本を捨てても心機がひとつも一転しなかったのではないか。そう思うに至る羽目になって僕はかつてのゴルフセットやら画材およびトランペットを捨て去ることに少し躊躇いを覚えたので、あ、捨てるってことはただのゴミになるわけだからそれはもったいない。売ろうかしらん。と閃いたのである。売るのであればまだマシだ。何がマシなのか。そもそも損得のためにそれらを売るわけではなく、そもそも心機一転するために売るのであるからマシもマムシもない。面倒くせぇから捨てちまえばいいじゃねぇかこのタニシ野朗。などと僕を叱責する人もあろうかと思う。でも売るとエコだし、地球にも優しいじゃん。そもそも地球に優しいって何なのだろう。地面を手のひらで撫でながら慰めるとでもいうのか。馬鹿らしい。優しいなどと抽象的に言うなぼけ。今地球がどんだけやばいのか根拠を知らせろあほ。などとついつい悪態をつきたくなるが、そもそもこのような悪態をつくに至った根拠は捨てるのをよして売ることにしたその理由を「エコ」などとしたことがどうにも嘘臭いからである。正直に言えば嘘であった。いくらかでもお金に換えたい、これが僕の本心なのである。これからは正直に生きよう。僕はこれらを売って美味い酒を呑みたい。焼き鳥も食いたい。心機一転から益々遠のく気がするが気のせいか。
そんで僕はこいつらを売りさばくための具体的な方法を思案した。中古屋に持っていけば簡単だろうけれども、いくらかでも高い方がいいしね。インターネットオークションちゅうのもあるが、インターネットオークションに出品した経験もないことからインターネットオークションに対する知識もない。知識がないうちに経験をしたら失敗する可能性が大きいということを僕は大人になって学んだし、今日は雪も降っている。道もつるつるだしつるつるの上を歩くと滑って転んだ挙句打撲あるいは骨折、もしくは死にさえ至るのが北海道という土地の宿命なのである。これら不要の産物を両脇に抱えてよちよち歩いて駐車場まで行って車に積み込むのも命がけだし、車でつるつるの上を走行するとつるつるによる事故を引き起こす可能性がでかく、この場合人が歩道で転んだ時よりもダメージがでかい。すなわち車の場合人を轢く可能性が出てくる。場合によっては僕が逮捕される可能性が出てくる。逮捕されると心機一転どころか人生が暗転する。いやん。僕は決断をしたのである。自宅から一番近い近所の中古屋に歩いて行こうと。
玄関で靴に履き替えた僕はゴルフセットと画材一式とトランペットを抱えた。実に重かった。重すぎて「これはやばい」と思った。いくら近所だからといったってつるつるの上をこんな大荷物を抱えて歩いた挙句万が一転んだとしたら、大荷物の下敷きになって打撲あるいは骨折、もしくは本当に死ぬかもしらん。それにこんな大荷物では歩くことさえそもそも困難である。そもそも困難であることを無理してやった挙句失敗した時、心のダメージは平時の失敗よりもでかい。有事の際の失敗は破滅もしくは全滅を意味する。ここは安全保障が重要だ。僕の安全を保証するもの、すなわち春である。春がきたら気温も上がり雪が溶ける。安全に歩道の上を歩け、安全に中古屋に行ける。心機一転はそれからでもいいのではないか。何も焦らなくていいではないか。そもそも、そもそもである。そもそも心の焦りがあらゆる不幸を引き起こしてきたではないか。心の焦りが僕に借金を負わせたではないか。ここは心機一転、ゆとりを持とう。僕は春の訪れを待ちわびながら玄関を抜け、自宅の前の通りをよちよち歩き出した。つるつるだった。信号を渡ると向こうに中古屋の看板が見えた。それを無視して手前の居酒屋に入った。そしてハイボールとつくねの塩焼きを頼んだ。そもそもなしてつくねを頼むのか。それはつくねが好きだからである。そもそも趣味というやつは好きなことがいつの間にか趣味になるのだ。僕の趣味はつくねなのか。なしてそもそも僕はつくねが好きなのだろう。そもそも肉をミンチにして捏ねて焼くだけなら暇さえあれば僕だってこしらえられる。そもそも僕は暇じゃないか。そもそも暇だからこうして右往左往した挙句居酒屋で春の訪れを待ちわびる羽目になっているではないか。なして僕はつくねをこしらえないのか。そもそも暇なのに。などと思いを馳せながら春の訪れを待ちわびているうちに二杯目のハイボール。そもそもなしてハイボールって言うのかしらん。高目のボール、ってコントロールの悪いピッチャーみたいだよね。二軍だね。あはは。誰も笑わなくたってかまわない。今の僕にとってハイボールが大事なのだから。かしこ。
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by hasumaro | 2011-02-15 10:50 | エッセイ
午前6時のぱんぱんスープ
その昔、とあるおっさんが歳を食うと消化器官が弱り油めいた食い物が食えなくなる挙句にそもそも消化器官が弱っているものだから少し食っただけで消化せずに体内に食い物が溜まる一方で常に腹が膨れ実に悩ましいことこの上ない肉体になってしまう、というようなことを言っていたが、現在僕はおっさんの言ったとおりの肉体になったということをここに報告したいと思うのである。
消化をしないということは常に腹の中に食い物が残っている状態であるので腹が減らないのである。否、腹は減る。脳味噌のレベルでは腹が減るのであるが、胃のレベルになるとぱんぱんなのである。つまり脳味噌は食い物を求めるが胃が拒否をする。言うことをきかない部下のような胃であるが、左遷させるわけにもいかぬのが悩ましいところである。
なしてそもそも歳を食うとこのような事態になってしまうのだろうか。胃がぱんぱんだと人間というのは考えることがいやんになるもので、従って事態の脱却について全く思いつかない状態であることもまた重ね重ね悩ましいことであるが、このままぱんぱんが続くと脳味噌ばかりが欲求不満になって胃だけが満たされ続けてゆくことになって、この場合消化不良以前に自分の脳味噌が心配になってくるのである。
運動をしようと思ふ。僕という男はこれまでの人生、なるべくであれば運動というのをしなくてもいい立場を維持し続けていきたい、ということに全神経を集中してきたように思う。平たく言うと運動というのがとっても嫌いなのである。でもそんなこと言っていられないのが今の僕の立場であって、以前の立場のままではいられなくなったという事実を今一度認識せねばならぬのである。そもそもぱんぱんの根本的な原因というのもたぶん運動不足が関係しているのだと僕は薄っすら気づいている。気づかぬ振りをしてぱんぱんと正面から向き合ってこなかったのである。でも今は違う。胃がぱんぱんならば外部からぱんぱんを刺激し内部の改革を促すのだ。すなわち運動しかない。江戸時代でいえばペリーの黒船が来航して大砲で脅し上げ日本が鎖国をやめたように胃を外圧で叩きのめすのである。胃、こら。
ぱんぱんに対して一番効果的な運動というのは何だろう。僕は腹筋だと思ふ。根拠はないがこの場合自分の直感を優先したい。大人になると人間というものはどこか保守的になるもので、直感に頼ることを恐れるようになる。だから結論がなし崩しになって、玉虫色の結果しか出ないのだ。昨今の民主党が典型である。僕は民主党は駄目だと思う。だからここは直感で行く。行ってやる。行かなきゃ駄目なような気がするのである。そんで僕は腹筋をやることになったのだがここで問題が発生したのである。腰痛である。僕は常日頃腰の痛い男である。たぶんこれも以前の立場を利用して運動というものを遠ざけていたことが原因であると推測するのであるが、つまり運動不足により引き起こされたぱんぱんを、運動不足により引き起こした腰痛のお陰で腹筋がままならない。まさしく因果応報ではないか。僕は地蔵のように固まった。唖然としたまま中空の埃を目で追った。平たく言うと放心した。しかし地蔵のままではぱんぱんはますます増幅する。しかし腹筋を腰のせいで否定された今、他に手がない。むくく。僕は顔面の筋肉のすべてを硬直させたまま両腕と両手を肉体の側面に反り合わせ、そうして両足をぴんと伸ばしたまま自室の床の上に立ち尽くしたのである。事態に対する打開策が思い浮かばぬ時、人間というのはこのような姿で立ち尽くすものである。たぶん。
立ち尽くしたまま時は過ぎた。10分くらい経過した。何もせず立ち尽くすというのは非常に疲れる。疲れると人は座りたくなる。僕は自分に正直に生きたい。自分の想いに忠実に生きたい。僕は座った。座った僕の眼前にテーブルがあった。妻がテーブルの上に何かを差し出した。尻を突き出して覗き込むとそれは野菜スープ。諸君は野菜スープというものを知っているだろうか。僕は知っている。あらゆる野菜をコンソメで煮込んだものである。簡単そうに聞こえるが実は難しい。以前調子づいて野菜スープをこしらえたことがあるが実に不味かった。なして不味くなったのか、その原因を追究したくなくなるくらい不味かったので追及していないが、たぶんこしらえる工程そのものに重大な間違いがあったのだろう。しかし妻の野菜スープは違う。実に美味い。どうして美味いのか、その理由を追求している時間がもったいないくらい美味いので追求はしていないが、たぶんこしらえる工程が正しいのだろう。そうして僕は野菜スープを啜った。ぱんぱんが徐々に和らいでゆく。体内のぱんぱんすべてにじわりと染み渡る。優しい味。優しいという言葉は本来であれば味覚を表現する際に用いる言葉ではないと思うのだがしかし、優しい味、という抽象的な表現が最も相応しいのである。たぶんこれが野菜スープの完成形なのだ。いやぁ、実に奥が深い。さっきまで腹筋と腰痛の狭間で嬲られ続けた僕の精神が癒されてゆく。もう腹筋や腰痛に悩まされなくていい。否、諸悪の根源はぱんぱんであった。そのぱんぱんから僕はようやく解放されるのだ。光。光が降り注ぐ。光、あはん。
降り注がれた光にいざなわれるように僕は眠りについた。そうして翌朝目覚めるとぱんぱんが治っていたのである。全く素晴らしい朝ではないか。しかも休日ということもあって僕の脳味噌と胃が同じ旋律をユニゾンで奏でている。僕はそのメロディにいざなわれながら主に北海道地方に拠点を置くセイコーマートというコンビニエンスストアーで限定販売されるピリカレーというスナック菓子を食い始めたのである。人間という生き物はぱんぱんが治るとスナック菓子を食いたくなる不思議な生き物であるが、僕も例外ではなくやはりピリカレーが食いたくなったのであるからある意味平凡な男である。そうして食い続けていくうちに僕はあることに気づいた。スナック菓子に飽きたのである。しかし飽きたからといって脳味噌と胃が満足したわけではないというところが重ね重ね人間の不思議なところであり、平たく言うと別の食い物、出来れば焼き蕎麦を食いたくなったのである。そうして朝っぱらから焼き蕎麦を探したが、残念なことに我が家の冷蔵庫には焼き蕎麦がなく、しかし諦めきれぬ僕は台所付近のすべての扉を開きすべての棚の中に頭部を突っ込んで焼き蕎麦の行方を追った。実に執念深い男であるが、そうしているうちに主に北海道地方で限定販売されている焼き蕎麦弁当という決して弁当ではないが即席焼き蕎麦を見つけたのである。るるんぶ。僕は踊った。嬉しくて。それからすぐさま湯を沸かし、沸いた湯を焼き蕎麦弁当の容器に注ぎ入れ、3分待った。3分は長かった。あまりにも長いのであまったピリカレーを食いながら待つうちにとうとう焼き蕎麦弁当が完成したのである。茹で上がった麺の上にソースを放り込み、糸が引くくらいのスピードで麺を混ぜ合わせ、僕は一気に頬張った。飲み込んだ。どうして焼き蕎麦弁当は北海道地方限定品なのだろう。こんなに美味いのに。などと思いながら食い終えた僕の胃はぱんぱんであった。いつも以上に苦痛を伴ったぱんぱんであった。僕は身動きが出来なくなり、カウチソファのカウチの部分に横たわって必死にぱんぱんに耐え忍んでいるうちに妻が起きてきた。僕は妻に「野菜スープ作って。お願い」という想いを口に出さず目に込めて妻を見詰めた。人間という生き物は呆れ果てると無言になる。妻もやはり無言であった。人間という生き物は妻に呆れられると無言になる。僕もやはり無言であった。見詰め続ける僕の姿を目尻の隅に置き去りにしたまま妻は台所に向かい、そうして無言のまま昨晩の野菜スープの余りを温め始めたのである。僕は横たわったまま野菜スープの到着を待った。この数分が実に長かった。実に長かったので待ちきれずに自分で取りに行った。そして妻の方をあまり見ないようにしながら野菜スープを啜ったのである。泣きながら。おかわりして。かしこ。
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by hasumaro | 2011-02-03 09:25 | エッセイ



爆発する愛と欲の言葉達
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