そして最後に腰痛だけが残った
心というのは何なのだろう。形があるのだろうか。
例えば花瓶の中の水のように不意に揺らすと波紋が出来るような。あるいは筒状のスナック菓子の空箱の中の残りカスのようにカサカサしたり。あるいは餓鬼の頃の青っ洟が寒気に凍てついた挙句、指で掘っても届かぬくらい穴の果ての塊のような。そんな形があるのならばいっそ眼前に晒して一度眺めてみたいものである。血。
心というのは人の思いで出来ている。そうであるのならばその心を表すのは、表現するのは言葉なのではないか。そうであるのならば沢山読書をして文章を書いて言葉を練習したら、いかなる心も言葉で表すことが出来るはずである。しかし出来ぬのである。なぜだろ。なぜかしらん。インターネットやフェイスブックやツイッターや、あらゆる手段のコミュニケーションツールが発達しても、肝心の言葉が発達しない、むしろ文明が発達しすぎて言葉の重要度が低くなっている。言葉なんかなくてもネットでへらへらしてたら何となく友達も出来るし、食った飯の写真を画面に掲示しているだけで「うまそ」「まずそ」といった会話も交わせるし、今や言葉に苦労しなくても人と関係が持てる。そうしてどんどん言葉が低迷し、心が置き去りにされ、おランチをおかわりして屁をこいて日々が過ぎ去り、電波だけが極限以上に発達してゆく。
僕は言葉が大事だと思っている。だから言葉に実に謙虚ですらあると自負する。自分の心が、思いが伝わらぬのは僕の言葉が駄目だから、と常に反省すらする。相手が阿呆でも、その阿呆がどうして阿呆なのかを伝えられぬ自分が阿呆とすら思う。その阿呆がやがて自惚れてデビュウしても、この阿呆を世に放ったのは自分の責任であるとすら思い自分を責め苛む。ああ、言葉って。言葉って奴は。などと常に嘆いて暮らしている。
愛する人に愛している思いを伝えようとすると、言葉というのはふらふらする。迷路の手前で尻を掻きながら右か左か迷うようなそんな気持ちが心に芽生える。「愛している」という一言が白々しくすら思う。そんな一言で表し切れぬ思いが心の中で溢れかえり、言葉の選択肢を狭める。いかなる言葉も軽く感じ、芋焼酎を呑んで「おや、これは薩摩だね」なんつう知ったか振りの様にならぬカッコつけのように感じて羞恥心が尻に刺さる。愛する思いとはこんなものじゃない、と今度は力みすら覚え、両肩にめい一杯力をこめて言葉を発しようとすると、さらに思いと言葉の距離が離れ、言語すらままならぬような呻き声を発してしまって気味の悪さだけが相手に伝わり、蓮麿という人間の根源的な名誉さえ失いそうになるのだ。
それでも、これだけの苦労の果てに言葉を見つけられたなら、これすら苦労と思わなくなるのではないか、という期待、希望をもって僕は今日も言葉と格闘するのだけれでも、そうして四十路を越えた今、ともすれば生涯言葉が見つからぬのでは? といった不安を抱くようになってきた。この不安というのはリアリズムである。四十路を越えたら、人はあと何年生きられるのだろう、といった死のリアリズムである。僕は死にたくないと思うが、言葉が見つからないまま死ぬのは死以上の死、即ち蓮麿という自身の否定である。否定というのは生きていること、生きてきたこと、人生全てを殺すこと。従って生きた証がゼロということである。それはいかん。いかんです。だって今生きているのに直ちにゼロになると明日からどうすんの? 否定の先は虚無。匂いもたたぬおなら。ただの空気。ゼロ。ゼロ麿。やばい。やばいじゃん。血。
生きた証を残すために飯の写真をパソコンに貼ろうか。勝手に他人が商う店先を写真に収めて無許可で貼ろうか。頼まれてもいないのに店主が拵える飯の評価をパソコンに書き込もうか。言葉が未熟だと発想が真逆の方角に発展してゆく。この世もこの国も同じではないのか。一番大切なことを蔑ろにすると、実にくだらないことばかりが目立つようになる。今まさに瀕死に喘ぐ人を具体的に助ける手段が瞬時に浮かばないからといって、簡単に思いつく「がんばろ」「どんまい」などと言った小学校の入り口に貼られたスローガンの如きことをほざく。今心臓が止まりそうな人に「がんばろ」もへったくれもない。それを身を削る思いで看取る遺族に「どんまい」も屁もおならもない。こんな時、どんな言葉が必要なのか。それともそもそも言葉など必要ないのか。言葉を失ったら今死にゆく人に「愛している」と伝えられない。この一言のために何千億、何万億の言葉が必要だというのか。そして無意味だったというのか。言葉の残骸が秋の枯葉の如く積み重なり、冬になると消え失せる。実に虚しいではないか。人間の言葉とはなんなのか。必要であるはずなのに、どうして伝わらないのか。僕は愛に憎しみを抱く。僕の言葉は愛憎に変わった。言葉を信じるがあまり、言葉を愛するがあまり、僕の心はとうとう憎しみだけになったのだ。
言葉を捨て、僕は心をジェスチャーで表す。そう決めてから、例えば腹が減った時、一旦直立してから尻のみを突き出して、さらに顔面を天井に向け、最後に顎を突き出す。これが腹が減った、という心を表すことと決めた。で。そうして我が家のリビング・ダイニングでジェスチャーしたが妻はきょとんとしている。で。で。これで伝わらない場合の秘策として、腹をさすりながら「あぁあぁ~」と喘ぎをもらしながら再度ジェスチャーを試みた。が。妻はきょとんどころか無視をして洗濯を始めた。で。秘策が尽きた僕は言葉以外で空腹を伝える手段を思案したがこれ思いつかぬことに瞬時に悟り、思わず「腹減った」と言葉を使ってしまった。言葉を捨てたはずの、あの時の決意を、そして愛憎を、こんなにも早く呆気なく裏切ってしまった自責を抱きつつも、あえてもう一度「腹減った」と言った僕のこの「あえて」という心はどこから来たのだろ。あえて、とは何なのだろう。どうして、あえて、なのだろう。僕はあえての謎を解き明かすために今一度「腹減った」と言ってみた。途端、今とても忙しいのだからもう少し待ってて欲しい、というか、今の状況を見たら忙しいということが伝わらないのか、いちいち言葉で表さないとあなたはわからない人なのか、という意味のことを妻が僕に言った。いや、いやいやいや、違う、違うのだよ。僕は僕の「あえて」を知りたくてあえて今一度腹減ったとあえて言っただけで、忙しい君にあえて「腹減ったのだから飯を作りやがれ」という意味で言ったのではないのだよ、という思いを伝えようとしたのだけれども、やはりさっきまで言葉を捨てていたことが祟って言葉が思うように思い浮かばず、口をもごもごさせながら尻と顎を突き出したまま、洗濯機を忙しそうに操る妻の後姿を尻目に一人リビング・ダイニングで突き出した尻と顎の位置を変えず、そのまま上半身を二三度折り曲げ「僕に気にせず洗濯に集中してください」という意味のジェスチャーをこっそり繰り返したのである。かしこ。
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# by hasumaro | 2015-04-09 13:17 | エッセイ
詩 その45

もう飯は食わない


心の中の思いが
体の中を通るうちに
思いもしない姿になって
口を伝って表に漏れる

頭の中の言葉が
喉の根本をうろつくうちに
思いもしない形になって
口を伝って溢れてしまう

思いを心の中にしまい込んで
言葉を喉の奥に飲み込んだら
わたしの価値は何なのだろう
わたしに価値があるのだろうか

人は死んだように生きることが出来る
何もせずにそこに生き残ることが出来る
埃が落ちるように歩くことが出来る
水溜りに映る顔を見ないでまたぐことが出来る
そこに価値をつけるのは他人だ
わたしが決められるのは明日の晩飯だけ
たぶんおかわりをするだろう

心の中にしまい込んだものは
やがて必ず狂いだす
言葉にならなかった思いは
大切なものを傷つける
手を伸ばしても届かない時
わたしはそれを初めて知る
それを愚かだと決めるのは自分
あなたではない

あなたではなかった

古い家の軒先に垂れた氷柱が
いつ落ちるのを待つか
海辺でこき使われた椰子の木の実が
あきらめて落ちるのを待つか
夕焼けはそれを教えない
ただ今日という日の幕を下ろすだけ
影の中でわたしの腹が減る

思いがここにあるというのに
言葉がここにあるというのに
必死に手を伸ばした振りをしたのは
腹が減ったのを隠すためだったのか
それでもわたしはおかわりをしたんだ

ごちそうさまでした

もう、飯は食わない




(2014年7月 捻挫)
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# by hasumaro | 2015-01-23 13:14 |
こしあんのような豆が降る
飲酒するようになると甘いものが食えなくなる、といったようなことをかつて身近なおっさんらが言っていたのを覚えているのだけれども、それは正しい見解である、ということに最近ようやく実感したのである。
かつてつるんとした少年時代にはあんこを結構食っていた。あんまん、あんぱん、あんドーナッツ、あんころもち、ぜんざい、おしるこ等など、今となれば意外なほどにあんこメニューを制覇してきており、当時ともすればあんこチルドレンなどと形容されると「うん、そうだけど」と、おでん屋のぱんぺんくらい当たり前の気持ちで返事をしながらたぶん屁もこいていたと思ふ。むわん。
飲酒とあんこがなぜ相成れないのだろうか、そのメカニズムはわからぬが、現在晩酌などをしていてあんこが欲しくなることは皆無である。あのあんこというのはなんだったのだろう。どうしてあんこを必要としなくなったのか。あんこは今どうしているのだろう。どこで誰のもとであんことして存在しているのだろう。秋というのは淋しい季節だ。これからでかい顔して訪れる冬の野郎にその存在すら蹂躙され、また一年間忘れられる。秋とあんこは似ている。僕はあんこを忘れたくない。決して忘れない。嗚呼あんこ。などと嘆いてもやはりこれ食いたくないのが現在のあんこである。
あんこに拘わらずかつて好きだったものが現在好きではなくなった、というのは結構ある。例えば洋服。以前はわりと黒っぽい感じのコーディネイトを好んでいたのだけれども、いつも黒い服を着ているといつしか心も黒くなりやがて気分も黒くなる、黒って色は人の内部を黒く染め、挙句いつまでも乾かぬ日陰の水溜りのようにずぶずぶした陰気な人間に成長し、そうすると婦女子にはもてぬわ、同姓には好まれぬわ、結果恋人も友人もできぬ男に成り下がり、毎夜壁紙に映る自分の黒い影に話しかけて回答の無い現実に涙するような男に落ちぶれる。そうはなりたくない、と強い決心をしたわけではないのだけれども、年齢と共に、不意に、湯をわかしたら湯気をあげるくらい自然と黒い服が少なくなり、現在では青とか赤とか黄色とか、信号機のような姿で近隣をうろついているのだから実に賑やかであり怪しげな男に成り果てている。困ったものである。
あんこと黒に共通するのは「飽きた」という気持ちではないだろうか。そらあんこを立て続けにおかわりしたりパンティまで黒くしたら飽きるに決まっている。好きという気持ちは人を盲目にさせるもので、好きなあまりついおかわりをし過ぎて、やがて茶碗一杯すら食いたくなくなるものである。そして無理にやめなくても肉体と内部が共鳴し拒絶を開始する。だから湯気のように自然とあんこや黒をやめるのではないだろうか、ということにようやく気付いた僕はこれからの人生、生涯を通じて全裸で飲酒しようと企んでいるというのは嘘である。
居酒屋というのは肴のデパートのようなもので、例えばビールに枝豆、焼酎にたこわさ、日本酒にあんきも、なんて必ずぴったりのコーディネイトが用意されている。そこにあんこはない。やはりあんこが忘れられるのは必然なのかもしらん。従って僕が飲酒を始めて以来あんこを忘れた現在というのも必然であった。加えて年を食うと葬式が多くなる。葬式には黒い礼服を着るのが儀礼であって、そうした環境にあると普段まで黒はいやんになる。そうして黒をやめていくのもまた必然ではなかろうか。これが大人というものであり、いつまでも黒いままであんこを啜っているのは餓鬼なのだ。大人は餓鬼の頃のギャグを聞いてももはや笑うことさえできない。餓鬼が「ちんこちんこ」などと言っているのを聞くにつけ「この餓鬼はたぶん馬鹿なのだろう」と思ふのが大人である。それを四十路になって「ちんこ」と言うと大人社会の落伍者である。一度笑ってくれたかつての餓鬼仲間の好意を忘れられず、未だに過去にしがみつき「ちんこ」を叫ぶ、実に悲しい現実。哀れとすら思ふ。餓鬼というのはあんこのおかわりと一緒で飽きるまでちんこを叫ぶ。大人はちんこに飽きているのだよ、とむしろ大人は責任をもって餓鬼に教えてやらんといかんのではないか。僕は僕たち私たちは、ちんこに飽き、あんこに飽き、そして黒に飽きた大人たちなのだ。僕たち私たちは大人というものを実行する。これが正しい世界なのではないのかしらん。
で、で。飲酒をしながら考えているうちにふと気付いたのは今まさに着用している部屋着が黒であること。これはいかんのでは? と思った僕は妻の居ぬ間にパンティを履き替えようと決意。手短な場所に干してあった桃色のパンティに穿き替えたのだけれどもこれだけでは何だか心が不満足であるということに気付いた。で、全身をカラフルにしたろかしらん、と企てた僕はカラフルな服を探してみたのだけれども、こういう大事な時に限って洗濯されておらず、箪笥にあるのはどれも黒っぽい服ばかり。いやん。しばらく思案の後、どうだろ、いっそ全裸になってみては? という悪魔か神のどちらかの囁きが僕の左耳に聞こえ、聞こえてしまったものを無視するのも如何なものか、と思った僕は妻の居ぬ間に一度急いで全裸になった。あはは。ぷらん。全裸になっちゃった。そうしてなぜか一声だけ笑ってまた晩酌。うん。まあまあな気分というのかな、何を上限というか達成度としてまあまあなのかはしらんがまあまあな気分のまま根拠は追求せず、そのまま晩酌を進めるうち、黒に飽きたこれからの人生を思い描いてみたのである。例えば黒以外の好きな色は何だろうか。赤かしらん。黄かしらん。否、どれもそれほどでもない。だからと言ってこのまま全裸で暮らすわけにもいかぬだろう。なぜなら全裸のまま働きに行くわけにも行かぬし、行ったら行ったで変態と誤解され逮捕される。逮捕されたら職を失い、妻も失う。挙句裁判で有罪が確定すると刑務所に入所し、そうなると出所しても職につけるかわからない。あんこ工場に面接に行っても落ちるだろう。ああ、男一代この世に生れ落ち、世に名を残せず死ぬのは何たる無念か。否、全裸で逮捕された男、として逆の意味で有名になり汚名だけを残すことになる。実に忍びない。僕の全裸は僕と僕たち私たちみんなを不幸にする。嗚呼、秋は淋しい。これから訪れる長い冬のせいでさらに心は沈むだろう。そして寒い。全裸はすごく寒い。冬の全裸は肉体までも凍てつかせる。「さあ、服を着よう」と一人呟き、ゆっくりと立ち上がった僕の眼前に居ぬはずの妻の姿。僕の文章力及び筆力では到底表現しきれぬような表情だったのでここでは書かぬが、僕は妻と目を合わせぬよう「いやぁ、寒いね、ほんと」などと言った声が震えていた。寒さのせいではなかった。ぷらん。かしこ。
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# by hasumaro | 2014-11-14 16:05 | エッセイ
平和のぱんぱん麺
自分は穏やかに生きたいと思っている。
「穏やか」というのを辞書を引いていないので詳細は知らんが、たぶん、正午過ぎの日差しをベランダなどで浴びつつ、思わず微笑むくらいの顔つきで、アイス・カフェオーレなんかを飲みながら過ごしている時に「穏やかだな」という気持ちを抱くと思うのだけれども、そんな風に生きたいな、と僕は思っているので、2年前の初詣以来毎年「穏やかに生きたいです」と祈っている。願っている。
そんな祈り・願いから普段むかつくことがあっても多少目を瞑っているのだけれども、例えば「頑固」という個人の性格・人格を売りにしているラーメン屋などに入店して、明らかにその性格・人格を表情・態度で表現する店主があえて醸し出す不穏な雰囲気の中で麺を啜るうちに言い知れぬ怒りに似た、否超えた感情が芽生えた時でさえ僕は、ここで怒りを言動・行動で実行に移した瞬間、自分の2年前からの祈りが願いが叶わずに崩壊してしまう、その絶望を想像して必死に我慢している。いわば僕の穏やかへの祈り・願いは怒りを超えた、もはや誓い、否使命のようなレベルに達しているといっても過言ではないのである。
しかしこうした僕の使命がすこぶる評判の悪い時がある。それは近親者、例えば妻が何かのトラブルに見舞われた時にその評判が一気に失墜するのである。僕は自らの使命からトラブルを穏便に済ます方向で調整を図るのだけれども、しかしこのような対応が弱腰・腰抜けなどと誤解を受けることがあり、その際、僕の祈り・願い、そして使命のことについて説明をするのだけれどもそれがなかなか伝わらない。やはり人というのは矛盾・不条理に対面した時、瞬時に反応するのが怒りという感情である。これを表面に示さなければ他者の信用は得られない。僕の場合妻の愛が僕から離れかねない、夫婦愛の危機ともいえる。これはやばい。やばいよ。と悟った時にはすでに遅い。しかし遅いといって諦めたら妻は僕を愛から見限ってしまう。どうしよ。どうしよかしらん。そうした焦りがめりめりと肉体の中にめりこんで、やがて心の中がぱんぱんになる。そのぱんぱんを世の人々はストレスと呼ぶ。このストレスを開放する唯一の手段はそのぱんぱんを自ら開放させること。この場合の手段は「怒り」である。そもそもこのような事態、つまり僕の祈り・願い、そして使命を崩壊させた元凶は、妻へトラブルを見舞った奴である。この野郎。馬鹿野郎。お前のせいで僕の穏やかはぱんぱんの中で弾け飛んだぞ糞野郎。そして怒りによるぱんぱん破裂の破片を奴の肉体、頭脳、果てに全身に浴びせるのだっ。やや八つ当たり気味だが、そもそもトラブルを他人に見舞った時点で他人の怒りを買っているわけだから、僕の怒りもついでに買え。ちなみにこれは個別的自衛権ではない。僕ら夫婦の集団的自衛権である。
穏やか、というのは平たくいうと平和ということである。平和というのをさらに平べったくいうとトラブルのない今の現状を表す言葉である。しかし僕がベランダでアイス・カフェオーレを飲んでいる最中、隣人が「お前がカフェオーレを飲みながらたたずんでいるまさにその位置に、正午の日差しが差し込むはずなのにお前がその位置でアイス・カフェオーレを飲んでいるせいで我が家に日差しが差し込まない。日照権の侵害だ」だのと訴えてきた場合、「やや、すみません」だのと直ちに謝罪すると二度と正午にアイス・カフェオーレを飲むことが出来なくなるのだ。アイス・カフェオーレが飲めないと僕の平和が訪れなくなる。この場合、僕の平和のために戦わねばならなくなる。それがカフェオーレ戦争である。そうして果てに殺しあうのが人間社会の愚かさであり、そうした人間の愚かさを知っているからこそ僕は穏やかに生きたい、平和に暮らしたいと祈り・願い、それこそが僕の使命であり、僕自身がまさしく憲法9条だといっても過言ではないのだが、このような平和を壊すトラブルを人間自身がこしらえている、これがこの世界なのである。実に矛盾ではないのか。みんな平和がいいんじゃないの? 戦争いやんていうじゃない? と世に問うてもトラブルはやまない。人間は止まらない。人間は加速をするのである。
平和の実現とはトラブルを無視することである。カフェオーレを二度とベランダで飲まずじめじめした湿度の沸騰した自室の中で汗だくで飲むことである。近親者が被害にあっても神社で祈って終わりである。助けない。戦わない。これが平和ではないのか。平和主義者ではないのか。全員が平和を理解したら全員で一斉にベランダを撤去し、自室のみでカフェオーレを飲まねばならない。これが全員に浸透した時、世界平和が訪れる。愚かな平和だが、平和にさえなれば愚かでも馬鹿臭くてもいい。これが僕の当初の祈り・願い、そして使命の果てで得た平和の真実である。この平和の真実を全員が知るべきではないのか、と僕は思う。つまり平和革命である。まずこの革命を知るべきは「頑固」を売りにした、「頑固」という個人的性格・人格に付加価値があると誤解しているラーメン屋の店主に、お前こそが平和を乱している、ということを教えねばならない。僕は750円を握り締めて頑固ラーメンへ向かう革命闘士。闘争資金としては実に安値。リーズナブル。うほ。
で、で、ラーメン屋へ入店した僕は岩がさらに凝固したような顔の店主に無言でカウンター席に通され、まるで巡査に交番の中で叱られる中学生のヤンキーのような姿でラーメンを待ったのだけれども、ここでふともうひとつの真実に気付いた。というのはいわば何もしないこと、戦わないことが平和を実現する唯一の手段であり、ちゅうことはこれこの場合、ただ不穏な店内で偉そうな店主の自惚れた応対に耐えながら麺を啜って店を出る、ただの一般客と同じ有様となって、どこにも革命がないではないか。気付いた瞬間なんだかラーメンが食いたくなくなってきた。しかし今更注文を変えるときっとこの店主は「はぁ? 今更何言っていやがるんだこのタコ」などと僕を罵倒するだろう。タコと呼ばれて平和もへったくれもない。その時は僕も怒る。へったくれもなくなった時点できっと平和への祈り・願いなどどうでもよくなっているし、ここで立ち上がらねば男が廃る。廃った男は死んだも同然。どうせ死ぬなら僕は桜木のように鮮やかに散りたい。男とはそういうものではないか? などとどちらかというと体育会系のマッチョを幼少時分から陰で馬鹿にしていたひねくれ者の僕が、しかしやはり僕の中の自我・男がうねりを上げる。こんな、タコ呼ばわりするおっさんに、正式にはまだ呼ばれてこそいないが、きっと呼ばわりするであろうおっさんに利益を与えたくはない。750円といえども、750円の積み重ねでおっさんはキャバクラに行ったりランパブに行ったりあんかけ焼きそばを食うのである。僕はこいつに積み重なりたくない。たかが750円を払いたくない時点で男らしくないという人もいるかも知らんが、そら僕も少し思ふ。だがね、その750円で損失するのは身銭だけではなくて、僕の、男の魂の損失に値するのだよ、ということを知ってほしい。だから僕は決してけち臭い気持ちで言っているのではない。750円の背景には、すごく重要な、魂の本体がまさに並々と溢れかえっているんだよ。ほんと。などと口に出さず心の中で魂を熱く沸騰させているうちに眼前に運ばれた煮干赤味噌豚骨ラーメン。「あ、しまった」と思わず口には出さず顔で表したまま店主の方を見上げた僕に向かってなんと店主は飛びっきりの笑顔で「待たせてごめんね、いつもありがとう」などと会釈さえする始末。え? と今度は口に出した僕は瞬時に「いえいえ、こちらこそ」などと何のこちらか知らんがそう言い、それから言語に変換できぬ言い知れぬ、実に複雑な気持ちになってとりあえずラーメンを啜ると煮干と赤味噌と豚骨のしつこいハーモニーに無理矢理食欲が引き出されて、うま、うま、などと馬のように啜り上げたのだけれども、これもまた平和だと思う僕の平和が間違えているのだとしたら逆に何が平和なのかを教えて欲しい。かしこ。
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# by hasumaro | 2014-07-25 17:59 | エッセイ
胃と膀胱のアプローチ
スポーツの中には団体競技と個人競技というのがある。というかそのふたつしかない。というか二人でやる競技は団体と言えるのか。でも二人競技とか複数競技とかペアあるいはカップル競技というのは聞いたことがない。従って一人じゃない限り団体ということになり、そもそも二人を個人とは言わんではないか。即ち二人以上が団体競技で、たった一人でやるのが個人競技、ということになる。
僕という男の生い立ち、体験、経験等により形成された性格が関係しているのか、団体競技というのが実に苦手であるのだが、苦手である原因というのが集団の中には必ず嫌なやつ、悪いやつ、嫌いなやつ、臭いやつ、漏らすやつ、などが混ざるからであり、そのようなやつらと関わるのが嫌な僕は必然と団体競技が苦手となったのである。競技の内容以前の問題だが、得てして団体競技というのは人間関係が深く影響するのである。
そんな僕が、なんの因果か血迷ったのか、野球という団体競技をやったことがあるのだから呆れたのに屁が出る。野球というのは実に人間関係が深く関わる競技であり、集団でひとつの目的を果たすためにあらゆる規制を設け、そこからはみ出るやつは補欠あるいは二軍あるいは解雇となる。例をあげると、大抵少し肥満したやつはキャッチャーをやらされる。たとえピッチャーをやりたくても絶対にやれない。テストさえしてもらえない。理由はただひとつ、でぶだから。いつからでぶはキャッチャーという法則ができたのか調べていないので知らんが、当時僕もでぶはキャッチャーと信じていたものだ。それから身長の低いやつはセカンド。打順は二番。これもいくらファーストを守りたいだの、四番を打ちたいだの駄々をこねても駄目で、絶対に二番セカンドなのである。同じく理由は知らない。あるいは背の高いやつはピッチャーだとか声のでかいやつはランナーコーチャーだとか、何だか知らんが当時の僕もそうした根拠のない法則を、まるで神の審判かのように疑うことなく信じ込んでいたものだ。アーメン。
でぶもでぶで特に主張、反発もせずキャッチャーをやるのだが、冷静に考えると実に差別的なポジショニングである。人間というのは個人でいると差別がない。なぜなら一人だから。集団になると必ず差別があるもので、しかしその差別に慣れると疑わなくなるのだ。つまり差別が当たり前になり常識になる。常識になってようやく疑問を抱かなくなり、集団の一部になれるのだ。野球というのはこうして、ものすごく根源的な人間関係に左右されて成り立っているスポーツなのである。
もっというとあきらかに下手糞なやつがレギュラーを獲得することがある。理由はそいつが監督の息子だったり親族だったり、コーチの長男だったり、発言権を持つチーム・スポンサーの甥っ子だったりするからである。ここまでくると談合というか裏口入学的であり、コンプライアンス違反である。そんならいくら頑張って練習しても、明らかにその身内らよりも上手くてもレギュラーにはなれん。悪しき慣習、権力の乱用、野球というのはブラック企業のようなものではないか。ということになる。
人間関係というのが一番悪く作用した場合、ブラック企業のようなものを生む。それが人間の社会である。僕にとって団体競技というのはその競技における実技以上に人間関係のストレスがでかいものだった。だからやめちゃった。
一方でそうした悪しき慣習、権力の乱用を、悪しきものだ、乱用だ、と一切思わないやつも出てくる。つまり権力側に迎合するやつである。そのようなやつは大抵後輩をいじめる。そしてでぶをキャッチャーにする。ピッチャーとしての能力を試さず、キャッチャーだと差別をするのだ。僕はこのようなやつが嫌いだった。このようなやつが嫌いなまま大人になったので、現在もブラック企業は嫌いである。でも悲しいかな、人間は蓮麿ばかりではないので、場合によっては僕のほうが阿呆あるいは馬鹿、ということになり、翻って僕が差別的と言われたりしちゃう。困っちゃうが、野球をしているやつ、したことあるやつ全員を嫌いなわけじゃない。ただし、僕はこのような経験・体験をし、それに基づいて嫌いなやつを書いたのであって、野球選手を差別したわけではない。というようなことを言っても一度むかつけばしばらくむかついているのが人間であって、その人間らが固まってやっているのが野球であり社会そのものなのである。僕もその一部に過ぎないのだ。ここから超越したい人は新たな神様のひとつでも作らなくちゃならなくなる。実に人間というのは無限にややこやしく、面倒である。ほんと。
で、で。数年前から他人にのせられてゴルフという個人競技をやっているのだけれども、これがちっとも上手くならん。そして心の底から自然と沸き立つくらいの「好き」という気持ちに未だ出会っていない。どちらかというと嫌いなほうに近い感じがしている。仕事の関係だの大人・おっさんの付き合いだの何だのがあって補欠に回るわけにいかぬ事情があるのだけれどもこれ、自分は実は個人競技にすら向いていないのではないのか知らん、と最近薄っすら思っている。アイアンだか何だか知らんが、長い耳かきのような棒を振って玉を飛ばして「ナイスショット」とか言っているのが底冷えするほど白々しい。下手糞なくせにクラブ買い替えようかしらんとか、嵌った振りをしているのが空々しい。何というか、言いし得ぬ薄ら寒い悪寒を感ずるのである。これは何という感覚なのだろう。初めてセックスをした後、しばらくの間婦女子を舐めて見下す、という男の潜在意識に潜む筋肉的・マッチョな本能めいたものに近い。ゴルフをやれば大人・セレブ。やれない連中へ差をつけた気になる、この屈曲した優越感。若い頃のハングリー、不条理へ対する反骨・反発心とは真逆の気持ち。これを抱くと大切だったはずの自分の心の核を失うのではなかろうか、という焦燥感。そんな色んなものを複雑に複合的に一斉に抱きつつアイアン・ショット。こんな精神では上手くなるはずがない、と思う。ゴルフというスポーツに、ソープランドに行って風俗嬢に説教しつつ延長するおっさんのような、快楽の果て、道楽の最果て、精神を失った、ただただ本能が剥き出しにはみ出た、動物めいた、しかし同時に実に近代の物欲めいた人間の正体が出現しているとすら僕は本気で思う。だからスライスするのである。加えてフックするのである。最後にシャンクするのである。ぐいん。
で、で。本来スポーツというのは僕がゴルフに抱く劣等感と嫉妬を足して2で割り込んだような不健全な気持ちでやるものではなく、むしろこのようなストレスを発散するために行う健全的な行為のはずである。僕は健全になりたい。なろっと。いっそカーリングでもしたろかしらん。などと根拠も思想もなく場当たりに思いついて、自宅の眼前にあるカーリング競技場へよちよち歩いて行ったのだけれども、そこはやはり団体競技。団体を肯定する人々の雰囲気が僕を打ちのめすほど漂っており、当然その中に溶け込めそうにない心境を瞬時に抱いた僕は足がすくんで一歩も動けなくなった。そして、一歩も動かぬまま日が暮れ、カーリング競技場の電灯が消え失せ、残ったのは背後のネオン。僕は漠然と踵を返して、綿埃のようにふわぁ、とネオンの中へと歩き出し、潜った居酒屋の暖簾の先で焼鳥とおでんと芋焼酎を交互におかわりしながら、ヤンキー出身のような容姿の若い店主に「いやぁ、君もゴルフ始めればいいのにぃ」などとほざいたのだから呆れた屁が匂い立つ。かしこ。
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# by hasumaro | 2014-06-12 12:40 | エッセイ



爆発する愛と欲の言葉達
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