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一人でスクイズ
王と長嶋。昔の野球選手であるが、団塊の世代、などとひと括りにされた揚句、職場などで女子事務員などに「臭いわ」などと陰口を囁かれたり、帰宅すると女房や娘、場合によってはせがれなどにも「臭いわ。臭いぜ」などと陰口であるならまだマシとさえ思えるくらい、露骨に、あえて対面した上で直接罵られた揚句こいつらの寝床はおろか飯や衣服、シュミーズやズロースに至るまで、生活、人生における必要経費のすべてをたった一人で稼がされ、時にストレス等により太ったり禿げたりしながら吉野家の嫌味なほど明るい蛍光灯の下で、ぺらぺらの牛肉をかき込んだりしている、焦って食いすぎて鼻毛さえ切る暇もない、そんな迫害を受け続けても文句は言うがささやかなロマンを夢見ることで、例えば、スナックのマダムと情事してぇ、とか、天ぷら食いてぇとか、そんなせこい、いや、涙ぐましいロマンを抱くことで日々の差別を乗り越えてこられた団塊世代のおっさんら。この人たちにとって王と長嶋はカリスマなのである。
小便臭い小娘や土臭い女房、頭の悪いせがれなどに非人道的な仕打ちを受けた揚句、法によって保護さえされぬその劣悪極まりない、社会の捕虜のような環境下に置かれても尚、文句は言うが決してテロやクーデター等の弱者に与えられた最後の手段さえ行使せぬ、おっさんらのその地蔵のようなメンタリティーを考えた場合、間接的、直接的にきっと王と長嶋の影響があったはずなのではないかしら? と僕は不意に思ふ。
というのは、人は嫌な境遇にある場合、その嫌な事態を忘れたい、と思うもので、しかしながらタコやイカを食った程度じゃ忘れられぬし、女優と情事するくらいのビッグイベントなどは卸す問屋が見当たらぬくらい可能性は低い、つまり奇跡であって、そんな奇跡をあてにした場合、現実との落差に絶望し、失禁したまま放屁し、最後に無職になることもしばしばであり、後遺症がでかいのであって、やはりおっさんらもそこら辺はわきまえており、ここはもっとささやかに、ねっとりした日常の湿り気をさっと拭い去ってくれるような、例えば登山をして、苦労して山頂に辿り着いた時に喰らう手打ち蕎麦のような、実に素朴なのだが、もっといえばそこら辺で食えそうな味なのだが、しかし苦労が報われるような味、というか、苦労をしているからこそ美味く感じる味、というか、いつも吉野家だからたまには洒落た料亭とか行って牛丼50杯分くらいのアヒルとか食って爽快な気分になりてぇ、というのを求めるものであり、つまり登山をしたりアヒルを食ったところでガサツな女房が慎ましやかな淑女に変わるはずもないのだが、だからそんな俺の夢を、たった今山頂を目指す英雄と重ね合わせ、自分もアヒルを食ったような気分になりたい、と思うものであるのだ。
戦後生まれのおっさんらは、焼け野原の上にちょぼちょぼ家を建て、耐震偽造もへったくれもないような家屋で暖を凌ぎ、飢えを凌ぎ、少し成長すると夢を抱くようになるが、しかし経済状態が厳しい上に親の苦労を目の当たりにしているので、思考がやはり現実的になり、「おいらも早く出稼ぎ行ってママンを楽にしてあげたい」と思い立ち、集団就職等で見知らぬ土地に送られ、山を掘ったり穴を埋めたりしてきた。そんな中、当時はまだ娯楽も少なかったはずで、現代のように中学生が簡単にセックスを達成したり、苦労を知らぬ餓鬼がキャバレークラブでダウンタイム等を楽に経験できたりするはずもなく、実に純文学的なアンニュイな恋愛をしたり、場合によっては止め処もない衝動を、巨大な洞窟に向かって乱射するような、理由無き反抗のような叙情的かつ直情的な行為をするしかなく、しかしそんなおっさんらのセピア色の青春時代に王と長嶋は颯爽と登場したのである。
愛嬌のある長嶋と寡黙な王。この正反対な二人は互いに足りぬ部分を互いの魅力で補い合い、二つの光は巨大な一つの輝きの塊りとなって、おっさんらの青春を明るく照らした。おっさんらはその大きな眩しい光の閃光に瞬きしながら目を細め、憧れの陰を追ったのである。それは永遠を想像させる、今はまだ見えぬ、光りの向こうへ続く未来への道標であったのだ。そしてさらに成長し、道標はおっさんに女房を与え、糞餓鬼を与えた。それでもおっさんらはめげなかった。王と長嶋、その二人が射してくれた光の方角は、今もなお輝きに満ち、この俺に家庭や役職などの大切さを教えてくれたのかもしれん、などときっと思って、頑張って牛丼などを食ってきたのである。そうして今もおっさんらは頑張って、ちょっと愚痴や文句を言いながらテロとかせずに臭くなっても頑張っているのである。一時流行った「親父狩り」のような土民の餓鬼のテロなどに出くわしても、最後まで銃を乱射したり、愚民どもをぶっ殺したりせずに耐えて耐えて耐えて頑張って、役所の天下りのぼけや独裁国家のパシリのような取引先のあほなどの攻撃にも耐えて耐えて耐えて、噴出した鼻血も拭わずに頑張って、税金などを納めてきたのである。
その流血の魂の根源は、王と長嶋が放った光である。今の時代でいえば、あゆとかかもしらんし、ロックにとってのストーンズでありサディストにとっての団鬼六であるかもしらん。今も新しい光がどこかで誰かに放ち続けているのかもしらんのであるが、しかし一方で「俺もあたしも光を放つ側の人物になりたい」などと、昨今しゃしゃり出る人が多い気がする。さらに昨今は情報やらが市町村問わず一斉にダイレクトであるお陰で便利だが同時に弊害もあって、というのは浴びたくないような胡散臭い光も多々混ざっており、勘違いした人が邪魔臭いのに輝いていたりする。情報が同時に大量流入すると多文化するとの予測だったのが、逆にだいたい似たようなものばかりになり、平たくいうと入り口ばかりが広くなって出口がものすごくちっちゃい、便秘のような現象になって、光が多すぎるあまり、誰でもある程度の光を浴び、同時にある程度の光を簡単に反射できるようになったものだから調子こいて乱反射を起こして、図に乗った偽者が横行していやがるのが昨今である、とも言えると思うのだが、しかし、かつての王、長嶋のような、一時代の道標になり得るような強力で巨大な光が存在したことも事実であり、それはかつて経済大国などと謳われた日本国の礎ともなった団塊のおっさんらの活躍をみてもわかることであり、ともすればこのおっさんらが頑張って稼がなければニートなども生めなかったと思うのであって、逆説でいうところの王と長嶋が放った光は、ガサツな女房と馬鹿息子を不用意に目立たせてしまった、という唯一の弊害があったのかもしらん、とも言えぬとも言えない訳であり、しかし僕は昨夜すすきのですき焼きを食った後にニュークラに行ってしまった揚句、桃色の光を浴びてピンクの吐息を「あはん」と吐いたわけであり、そこにもかつての王と長嶋のような光があったかというと、少しエロティックな光があったことしか気付かなかったわけであって、「いやぁ、君はひょっとして世界中の光に魅了されているんじゃないかい? だって、眩しすぎて君をずっと見詰めていられないほどだよ。だからほれ、電気を消そうか。むほ」などとしつこく言って、「邪魔臭い」と言われた揚句、「だったらさ、その、あれ、蕎麦食おうよ、蕎麦。なまら美味い蕎麦屋があるんだよ、山頂に」などとさらにしつこく食い下がった揚句、平地の上のニュークラで遭難したのであるから始末に終えない体たらくであるが、まぁ、こんな僕でもこれから頑張ろうと思って、自室に帰るとふらふらしながらバットを探したが見つからないので持った振りして素振りを始めたのであるが、その素振りをする自分の姿はきっと情けないことこの上ないであろうなぁ、と感づいた僕は、「今、この瞬間の僕に、せめて光をあてないで下さい」などと一人呟いたのである。かしこ。
# by hasumaro | 2006-02-21 22:04 | エッセイ
饅頭の中のあんこ達
ヤンキー。懐かしい言葉である。懐かしくて涙は出ないが屁が出た。
少し前、沖縄の若僧が突飛な格好をして「こらぁ、うだらぁ、ぶなぐるぞぉ、ごーや野朗」などと何か訳のわからぬ、というか訳を知りたくないような怒声を上げて、複数の巡査相手に駄々をこねているシーンが僕の自室のパナソニック製のテレビに映っていたのだが、よく見ると彼らの格好はその昔ヤンキーファッションと呼ばれた類のもので、ここ札幌辺りでは久しく見なくなったファッションであった。
都会いうのはおしつけがましく、今日もせっせとあらゆる情報をめいいっぱい発信し、人々がそれを消費するとすぐにまた新たな情報が更新される。人々はその消費速度をめいいっぱい加速させていくことに快感を覚え、「まだ足りねぇ、もっとくれろ」と空のドンブリを持って、太った顔して待っているのだ。そしてさらにばら撒かれる最新の情報、所謂流行を人々は人々と競い合って消費していくのであるが、同時にこれだけの溢れんばかりの情報がしょっちゅう更新されて、次から次へとおでん鍋の中にタコだのイカだの猿だの鹿だの指だの妾だの嘘だのホラだの恥だのを投入されると、まず最初に何を食えばいいかわからなくなり、自分が一体何が好きで、何が食いたくておでん屋に来たのかさえわからなくなる時があり、とりあえず次に放り投げられる最新のタネを食っとこう、ってことになりがちである。つまり流行は流れ行くことだけが意味であり、与えられる意味はない。と思うのだ。
一方で、比較的更新速度の緩やかな地方都市や、明らかにしばらく更新していない田舎などは未だにタコやらイカを齧っており、都会の人々はこれを見て「ひゃひゃ、奴らまだイカだぜ。俺なんてとっくに尻齧ってスリッパ食ったぜ」などと、実に見下す傾向にあるのだがしかし、流行というものはくるくる回るもので、今現在はタコが流行っているのではないかしらん。というのはレトロ、なんつって昔のものが近頃では最新のようである。
というより、随分昔に流行ったらしいテクノ・ファッションやディスコティックな宇宙ファッションみたいなのも、当時は人間味や肉の匂いを極限まで排除し、近未来的なイメージで発信されたファッションであったが、今では古い特撮映画のようであるし、実は何もかもが古いものであるくせに、現代を気取っているだけ、誰も知らなくなった頃にひょっこり顔出して「俺、新しいの」だのとのたまっているだけかもしらんぞ、と僕はちょっと警戒する。
僕は人込みが苦手な性癖を持つが、それでもたまに頑張って街に行く。街に行くとホント色んな人々がいて、その色んな人々はことごとく色んな格好をしていやがるのだ。仕舞いに色んなのが居すぎて全部同じに見えるほどである。よく「近頃の奴らはみんな同じ格好してて個性がないよね」などという奴がいるが、そんなお前も同じに見えるのだから始末が悪い。確かにみんな足が短くなった印象があるが、それ以外で言うと、髪の毛を右サイドから分けている奴と、左サイドから分けてるのがいる。あるいはあらゆる方角に髪の毛を逆立てているのや、潔く、というか何故にそのように潔いのかわからぬが坊主なのもいるし、ジャケッツの着丈を短くして尻を出してるのや、しゃがみこんだ途端、実際に尻をはみ出さしているのや、実に防寒に乏しい布をマフラー代わりにしているのや、ジャージーをだぼだぼさせておにぎりを齧りながら歩いているのや、ちょび髭を生やして鼻毛を整えているのや、とろん、とした目でやる気を感じさせないのや、もう何もかもが面倒臭くなり「明日死のうか」とぼんやり考えていそうなのや、肉ばかり食って野菜を食卓から差別していそうなのや、まあ、あげればきりのないくらい、切れの悪い残尿のごとくいつまでもいつまでも色んなのが続くのである。刹那。
僕は目がくらくらする。両目ばかりが加速して脳味噌が歩いている。僕は中華料理屋などに入ってもエビチリかチャーハンでさんざん迷って、血迷ってラー油を飲み干すような男なので、こんなにたくさんのメニューがあったら自分が何を頼めばいいのか、この場合だと自分を見失ってヌードになりそうな気持ちがするのである。しかし同時に他人から見れば僕自身もこれ、このしつこくて終わらない流行の行列の中の一部になっているかもしれんのであって、そう考えればみんな色んな格好をしているが、みんな同時に一斉に疎外感を感じているのかもしらん。だからみんな一斉に行列を作り、行進する事を、否、更新するのをやめぬのかもしらんのだ。
一方で、人はそれほど他人には興味がない、という話も聞くが、つまり人の目を気にしてても、お前のことなんか誰も注目してねぇぞ、ということだが、そうなると僕は確実に人の目が「気になる」ってことかもしれん。こうしてあらゆる最新の行列を眺めていちいち色んなことを思うのはまさにその証拠なのかもしらん。しかし一億二千万もの人口がおれば僕のような奴も確実に存在するはずであり、そうなれば人はお前を注目しないが、お前だけを注目する人もいる、ってことになり、こうなればどっちかわからんくなって、仕舞いにどっちでもよくなる。面倒臭い、厄介な話である。だから僕はもう十年以上同じお店でしか洋服を購入していない。他の店に行くとまた目がくらくらして、ラー油を飲む羽目になるのだ。だからこれからもイカやタコを食い、たまにおでん屋のマスターに「スリッパひとつ」などと言うのだろうが、実はスリッパなどいくら煮込んでも食えるわけがない、とも思っているのである。
前途した話に戻ると、昔のものが回転して今に至る、という僕の法則から、実はヤンキーだけが外れるのである。なぜなら、あの沖縄のようなヤンキーがあの行列には存在しないのである。困ったことだ。って、別に困らないが、ということはヤンキー・ファッションのみが流行をいつの時代もことごとく逆行していることになり、もっといえば大昔から一度も変化していない、古典的なファッション、否、もはやファッションなどと軽軽しく口にしてはならんくらいの、古典的な様式美すらあるのかもしらんのだ。論理的に破綻すると途端逆上する、というヤンキーの特徴だけは現代も「逆切れ」というスタイルで残っているが、しかし一方で、ヤンキーのような格好をしていれば確実にいつ喧嘩を売られるかわからないものであり、僕が経験したことでいえば、こっちが喧嘩を売っているつもりがなくても勝手に喧嘩だと解釈され買われてしまう、ほどであって、実はヤンキー・ファッションはファッションを超越した、落語家は必ず座布団の上に座る、というように、ヤンキーは必ず喧嘩をしなければならない、ということになり、同時に落語家は必ず着物を羽織るのであって、これを考えた場合、ヤンキーも喧嘩をするためにパンチパーマをしたり酔った猿のようにぶらぶら両肩を揺すって歩くわけで、この両方が成り立って始めてヤンキーになれるわけで、つまりもはや文化であり、様式美であり、形式であるのだ。つまり自由なスタイルはない。ヤンキーには落語家が座布団の上で語って初めて落語、という形式を留めるように、型、というものがあり、ニュークラなどでホステスにへらへら喋る僕の猥談などは落語ではないのである。
僕はようやくわかった。落語家を目指す若者が少ないことが。あ、違った、ヤンキーが少ないことが。一言で言えば喧嘩しないと駄目だし、座布団の上から出たら駄目だから、あ、違った、ヤンキーじゃない普通に勉学に励んでいる優等生とかになめられたら駄目であるし、万が一、ヤンキーが一度も喧嘩をした事のない奴に暴力で敗北したらその時点でヤンキー剥奪であり、切腹、晒し首ものであるし、弱いとわかったヤンキーなんててんで恐くない、ということになってクラスメイトから苛めを受けたりするのである。そら屈辱である。
だからそんな面倒なことは嫌だからとりあえずさ、ひとまずタコ食って、次のイカ食って、まあ、それから尻でも齧ろうぜ、って感じで今後も回転はやまないだろな。かしこ。
# by hasumaro | 2006-02-19 00:37 | エッセイ
塩撒かれたら甘くなる男
理屈というものは他者にとって時に屁理屈に変わる。
少し具体的に言えば、僕はスパゲッティ・カルボナーラをよく拵えるのだが、このスパゲッティ・カルボナーラの美味しさを説明させて頂くと、まず、生クリームでソースのコクを演出し、パルメザンチーズでまろやかさを演出し、卵黄のとろみでコクとまろやかさを統一し、さらにはベーコンで塩気を演出した後、味のアクセントを演出し、白ワインでベーコンの食感をじゅわっとさせる。あとはお好みで黒ペッパーを振りかけた後にちょっと微笑んで、両の鼻の穴を膨らまし、「うん、美味い」という言葉を口から出さずに顔面で表現し、ちゅるちゅる啜る。これがスパゲッティ・カルボナーラの美味しさである。しかし、これだけでは実は足りなくて、というのはスパゲッティ・カルボナーラを調理する上で、なぜに生クリームやら卵黄やらを使用するのか、さらにはなぜにそれらを使用することでこのように美味しくなるのか、という、その根本を言及しなければその美味しさを本当の意味で説明したことにはならんのだ。
これを説明する為には理屈が必要である。すなわちこれらの具材を使用する意味、というのを説明しなければならぬのである。実に面倒臭いが、この際説明申し上げようとたった今決意する。
まず、スパゲッティ、と言っても色んな種類があるのだ。ソースと絡めるタイプ、具と調味料で絡めるタイプ、あるいはトマト系、バジル系、クリーム系、等々、そら数えたら限りはあるだろうけれども数えるのが面倒臭いのでここで省くが、カルボナーラでいえばこれは明らかにクリーム系であり、ソース系でもある。つまりクリームソース系である。そもそもカルボナーラという調理法は深夜情事を終えたカップルが「腹減ったな」って時に、簡単に作れる、なおかつ全裸のまま作れる料理なのである。だから簡単に、即席的にコクの出やすい生クリーム、チーズ、卵黄などを使用するのである。
そもそもソースってのはブイヨンだのブラジャーだのを仕込む必要がある場合が多く、それは色んな野菜やら肉やらを数時間ないし数日煮込みあげた後に微量に残る濃厚なスープのみを取り出す、という、途方もない労力を搾り取られる作業であって、こんなものを全裸で拵えると確実に風邪を引くのである。だからそんな面倒で体に良くないものを仕込まずに、簡単に全裸でコクの出る生クリーム等を使うのである。これがスパゲッティ・カルボナーラの全貌なのである。
僕はここで世界がカルボナーラに至った歴史を説明したいわけではなく、言いたいのは、このように僕が汗だくになって舌をこねくり回して、ついでに全裸になって説明したにもかかわらず、このような僕の苦労を、汗だくの理屈を、「へん、そんなの屁理屈だ」と屁のような男に限って言い放つのである。僕はなまらむかつくのだ。僕の理屈に屁を付けるなんて実にテロルのような男だと。こうして人は人を殺すに至ったり、ともすれば外交交渉が決裂し、戦争という外交の最終手段を選択せざるを得なくなったり、だから冷静に話の通じぬ時こそ互いの理解の為に話し合い、説明等が必要であり、そこには理屈が伴うものなのだと思うのだが。
しかしここで思うのは、なぜ彼は、仮に名前をテロ彦としよう、そのテロ彦はなぜにこのような、僕の苦労を水の泡に帰す、非人道的な捨て台詞をぬかしやがるのだろう、と。
僕もいい大人なのでこれまであらゆる経験をしてきた。例えば不勉学の時期に勉学の得意な奴と話したら実にコンプレックスを感じたものである。童貞の時代にセックスに成功した同級生にも同様の気持ちを抱いたし、「俺はセックスを経験したのだから、次はレイプを経験したろと考えている」などとのたまうエロ不良風情に大いにむかついたものだ。そんな時僕は「うるせえ、俺はね、あえてセックスはしたくないんだよ。なんて言うか、感性が枯渇するかもしらん、つうか、だいたいな、僕はロックスターになりたいんだ」などと実に恥ずかしい反論にもならぬ逆上論を、実に心細く展開していたのである。きゃ。だからこれが大人になると、実際知らないことが多いと少し恥ずかしい気持ちがするし、つるんとしたむんむんの餓鬼が大人の僕より先に夜の妙技を体得などしていたら、これは実に口惜しいし、「あの場合、婦女子のピンポイントから暗黙の合図があって、その合図ってのはなかなか体験しないとわからぬものなんだけれど、あえて言えば、肉体の色彩が陶磁器のような淡いアイボリーからボイルしたサーモンのように変色するっていうか、そこを間違わず、誤爆せずにスカッドミサイルで狙い撃ちするようなものですよ、実際」などと説明を受けたら冷静にその説明に頷くことはきっと出来ぬはずであり、だからこの場合、テロ彦にとってカルボナーラは、冷静を滅するほど口惜しい存在だったのかもしらんのだが、人はこのように冷静を失い、自意識のみが剥き出ると、決まって逆上、逆切れし、無様な捨て台詞を吐かざるを得ないのであって、これが俗に言わぬとも「興奮状態」であり、他人の興奮というのは時として実に醜い、不細工、そして恥ずかしいものであるから気をつけたいものである。エロビデオは一人で観賞すべきである。
で、僕は冷静になって「あ、テロ彦はカルボナーラではなく、南京豆とか食いたかったのかな、だからこんなお茶目な態度をとるのだな」と思いなおし、「じゃ、豆でも食いに行くか」と告げるとテロの奴は「豆なんて食いたくねぇよ。それより俺は世の中が狂っていると思う。政治家とかパスタ屋とか。談合だがだんごだが色々悪さしてるしよ、だから俺はこんな国に税金は納めたくない。だからあえて無職を通してやろうと思う。ただ無為に無職をやるわけじゃなく、夢というか、真実の仲間というか、そういうものは大切にしながら無職になるっつうか、なあなあじゃなく、真実の夢っていうか、無職のモチベーション、ていうか、ロック文化のデフォルメというか、その、つまり働いていないのはわざとなんだ」などと言い、僕は「ああ、これが屁理屈というのだな」と思い、テロ彦を薄暗くて幽霊が出現しそうな気色の悪い路地の電球の下に置き去りにし帰宅し、それから部屋で待つ色子に「つまりだね、おっぱいを見たい、という気持ちは理屈じゃ説明できないから、とりあえず見して」などと言って殴られたのである。かしこ。
# by hasumaro | 2006-02-16 20:38 | エッセイ
人間のちゃんこ丼
色んな人間がいる。そらそうである。
例えば、屁。
僕が屁をこくと、怒る人、泣く人、笑う人、冷静に軽蔑する人、殺意を抱く人、負けずに屁を放ち返す人、など色々いるのが人間社会である。
僕はこれまでの人生で屁のトラブルはなかったが、場合によっては「お前の屁は、もう我慢ならん、殺す」とか言って刃物で追い掛け回された揚句、ぶすっ、とやられ、死に水ならぬ死にっ屁を漏らすことになるのがこれまた、人間社会である。いくら新憲法を制定しようとも、決して屁の自由を与えてはならんのだ。人は自由で人を殺すことも出来るのである。ぷす。
僕は車道に車の往来がない場合であっても、必ず信号が青になってから渡る律儀な男であり、たぶんこのままの調子で将来も法令違反などを犯さずうまくやっていけるであろう。これが幸いして、屁の場合においても同様、他人、隣人、友人が脇にいる時には、肛門付近の筋肉のめり込み具合などを瞬時に把握し、あ、これは音がないから、すー。あ、このめり込みはやばいから、お便所に行って放つか、咳払いとユニゾンで放つか、雑踏に紛れてこくか、などを状況や環境により選択するのである。律儀っ屁。このように実に苦労しながら屁のエチケットを守っているのである。
同様に、脇にオナゴがいる場合などはもう、屁が体内でリバウンドするくらい極限まで我慢するのだ。例えばランパブやニュークラなどにレジャーで行った場合、案内された席に着席し、「ほほう、なかなかいい具合のお店でないの。ほほう。なかなかやるねぇ。むほ」という具合の顔をしながらキャスターマイルドを燻らせていると、やがて「いらっしゃいませ、あはん」などと言いながらホステスが来るのである。僕の脇にきたホステス、仮に名前を尻子としよう、その尻子はとても美人だ。そしてその肢体も衣服の上から観察しても瞬時に全裸の映像が伝わるほど、直接的かつ具体的な官能美を存分に放出しているのだ。むほほん。ハートの中で僕はスキップをしながら「君も何か飲めよ」などと低音を響かせて言い、「それじゃ頂きます。アセロラひとつ」などと尻子。「おい、アセロラは高いんだから水にしろよ、おい」などと決して表情には滲ませず至って余裕の顔で僕はまたキャスターマイルドを燻らせる。これが大人である。心で踊っても肉体は地蔵でなくてはならんのだ。人は地蔵を見るとつい拝むもので、この場合においても同様、尻子は僕と夜の参拝をしたくなるものなのだ。これが大人である。
それから色々エロ話やホラ話などを織り交ぜつつ、逐一尻子の様子をこっそり確認しつつ、じわっと手ごたえの如きを感じながらいよいよクライマックスへと向かうのだ。むほ。尻子はもはや手中にある。今夜お前とご参拝。お前の賽銭箱に俺の小銭。僕は思わずお釈迦様に飛びつきそうになるのを堪えつつちょっとユーモラスな地蔵を演じる。これが大人である。が、しかし、しかしである。突如としてある変調を感じたのだ。8ビートからいきなり雅楽が鳴り始めたのである。つまり僕は、屁をしたくなったのだ。これはやばい。これを我慢し、見事ご参拝にまで至るのが大人であるのだが、この肛門付近の筋肉のめり込み具合は、確実に音が鳴る。しかもすでに演奏直前のハウリングの如きが微かに聴こえている状態である。尻はすでに興奮状態であり、今にも「ワンツースリーフォー」などとカウントを入れそうなのだ。やばい。あはん。僕は「どうしたの?突然青い顔して」などと心配する尻子に「実は、今朝愛犬が死んで」などと嘘を言い、尻の穴を懸命に閉じ合わせ、両足の筋をぴんっと張り、すでにお便所にも行かれない状況になり、気がつくと油汗が滴り、肉体のすべての穴がびしょ濡れになり、そのうち尻子の声も耳に入らなくなり、走馬灯の如きが眼前でくるくる回り、ああ、こんなことなら一度くらい法令違反を犯してやれば良かった、僕を叱った母に屁で応えたりしてみたかった、などと心で呟き、ぶすぶすぶすぶす。バスドラムと浪曲の語り部分が同時に鳴り響いたような複雑な低音を尻から放ち、「何これ、臭い」などと言う尻子の嫌悪感、不快感に満ち溢れた悲鳴を両耳の裏側で聞きながら、それでも、「いやぁ、あまりに楽しいもんで、僕のお尻が思わず笑いを漏らしたよ」などと少し涙ぐんで言うのがこれまた大人である。たぶん。
というように、つまり、屁をこいてしまったら後の祭り。祭りの後でこっそり屁をこくならいざしらず、祭りの最中に屁を放つと二度と行けない店が増えるのである。かしこ。
# by hasumaro | 2006-02-15 23:14 | エッセイ
ブログ、あはん。
「なあ、ブログって何だよ」
「何か、日記みたいなのじゃないかしらん」
「日記? 日記ったらお前、日記じゃねぇか。なんでブログなんだよ」
「知らないわよ。なんか調子こいてるんじゃない?」
「誰が調子こいてるんだよ。 あ、あいつだな。ホリエモンだろ? ああいう輩はお前、おでん食ってもロールキャベツばかり食うんだよな。噂で聞いたけど」
「ホリエモンは関係ないわよ。ブログの話でしょ? 馬鹿じゃないの」
「馬鹿ではないよ、ばかん。それよりブログってどこの外国語なんだよ」
「外国語っていうか、略してんじゃないの? 調子こいて」
「誰が調子こいてるんだよ。あ、あいつだな。あの枝豆屋のせがれだよ。あいつはお前、家業を継がないでお前、ロックとかやってんだよ。でぶのくせに」
「だから枝豆は関係ないわよ、ブログでしょ? あほじゃないの」
「あほじゃないよ、あほん。それより、ブログってなんなんだよ畜生。ブラブラしてる奴がロックやって愚の根も出ないくらい貧乏してる、って略なら少しおもしろいよね? あれ? おもしろくない? あ、そう。だったら、ブスを炉端でグツグツ煮込む、の略だったら、ぶぶー、おもしれぇよ、ね? どう? うほほ、おもしれぇー、あははは、あははは、あ、おもしろくないね、ごめんなさい」
「もうどうでもいいわ」
「うん。どうでもいいね」
僕は小さく屁をこいた。

というようなやり取りを数週間前にやったのだけれど、以来、頭部の片隅にブログがくっついて離れず、「もう、いやん、離れやがってよ、もう」と女の子のような口調で駄々をこねてみても一向に離れてくれず、挙句の果てにブログの奴にとっても恥ずかしい陵辱プレイを強要される夢などを見て、安眠につけぬところか少し癖になりそうな予感さえ抱く始末で、こうなれば、くそ、ブログの奴の正体を突き詰めて、それから改めて恥ずかしいプレイを受けてやろうじゃねぇか、あはん。などと決意し、それから僕はブログの勉強を約15分くらいやって、そして飽きた。どうでもよくなった。遠くへ行きたくなった。旅に出ようと思った。バッグにビキニパンツやステテコなどを詰め、それからエロ本やビニ本なども詰めた。するとバッグが異常に重たくなり、とてもじゃないがこんなもん担いで旅をすれば直ちに遭難するであろうことが容易に推測され、しかしこれは明らかにエロとビニの重さであって、しかしこれらを置いていくのは非常に躊躇われる。なぜなら僕が旅をしている間に何者かが、あるいは色子がエロやビニを見つけた場合「この屁垂れ、変態」などと激しく罵倒されるであろうことが容易に推測されるのであって、僕は悩んだ。エロとビニを置いていけば僕は遠くへ行けるが、この重さだとせいぜい手稲区あたりで遭難する、しかし置いていけば罵られる。罵られるのは嫌だ。僕は悩んだ。そして面倒臭くなった。それから、革命が起きればいいと思った。数分後には平和を祈った。最後にイマジンを唄い、それから今一度ブログを勉強したのである。泣きながら。
すなわち、このブログはそんな僕の涙の結晶である。たぶん。
# by hasumaro | 2006-02-14 20:27 | プロローグ



爆発する愛と欲の言葉達
by hasumaro
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